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石垣四箇
【いしがきしか】


旧国名:琉球

(近世~近代)王府時代~現在の地域称。地元では単にシカといい,四箇・四箇字ともいう。石垣島南部に位置する。登野城(とのしろ)・石垣2か村と乾隆22年(1757)登野城村から分村した大川村,石垣村から分村した新川村の4か村を指す。そのため,登野城と石垣,大川と新川をそれぞれ「兄弟村」という。在番仮屋・蔵元・石垣湊などが所在し,八重山諸島の枢要な地域である。そのため百姓は臨時の課役が多く,分村以前の康煕17年(1678)に他村は五度夫だが,登野城・石垣両村は三度夫とした。しかし同50年に再び五度夫となった(参遣状/喜舎場家文書)。分村後の乾隆30年,改めて四箇村の臨時課役,御用布の難しい図柄は四箇村に調えさせていること,在番仮屋・蔵元など10か所の掃除は毎月朔日・15日に四箇村の小役夫がすること,などを理由に三度夫にすることを申請し,許可された(同前)。しかし同41年にまた五度夫にかわっている(翁長親方八重山嶋規模帳)。村位は,「里積記」では布・石ともに上位とされた(那覇市史資料1‐2)。このうち石は,夫遣と同じ理由で下々位としたが,乾隆33年宮古島平良五箇村同様に石を上位にした(与世山親方八重山嶋規模帳/沖縄旧法制史料集成3)。しかし同45年再び下々位に改めた(翁長親方八重山嶋規模帳)。同36年の明和の大津波時の石垣四箇の人口4,684,うち1,510人が死亡した。畑55町余・田9町余が流失し,畑59町余・田7町余の作物に被害が出た(大波之時各村之形行書/生活史料7)。津波後,蔵元を集落北部の文嶺へ移し,石垣四箇の人々は蔵元や在番仮屋・諸座・桃林寺・権現宮などの造営に従事した。しかしその地は湊に遠く,用水も不便で不自由との理由で,もとの村敷へ戻った(同前)。以後も八重山の行政・経済・文化の中心地として発展し,諸官庁・商店街などが集中している。昭和41年大川と登野城の地先の埋立地に美崎町が起立し,市役所・八重山警察署・消防署などは移転したが,市街地の中心として機能している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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