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稲福村
【いなふくむら】


旧国名:琉球

(近世)王府時代~明治36年の村名。島尻方,はじめ玉城(たまぐすく)間切,のち大里間切のうち。方言でもイナフクといい,「おもろさうし」には「ゑなふく」「いなふく」と見える。沖縄本島南部,太平洋に臨む琉球石灰岩の台地に位置する。佐敷の稲福大主が村立てをしたと伝える。集落の形成時期は,稲福遺跡の年代からみて,12~15世紀頃と推定される。北東部に,県文化財の大城按司の墓,通称ボントゥウバカがある。「高究帳」に玉城間切稲福村と見え,大城(おおしろ)村と併記され,高頭188石余うち田126石余・畑61石余。「由来記」では大里間切稲福村と記す。稲福村は水田が少なく,他村へ出作していたが,道光17年(1837)大城村民が比良仲原の山麓の湧泉から,稲福村と大城村の百姓地の境にある小川原へ水道を引き,水田460余坪を開き褒賞された(球陽尚育王3年条)。道光19年の大里間切下知役への褒賞状によれば,稲福村の疲弊は間切中でも甚だしく,大見武(おおみたけ)村とともに諸上納物が間切の引負になっていた(雍姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。拝所に山城之嶽・上之嶽・中森・ハケ森・稲福之殿があり,大城ノロの祭祀(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治13年の戸数71・人口329うち男167・女162(県史20)。同36年大城村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7239825