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沖縄県
【おきなわけん】


(近代)明治12年~現在の県名。廃藩置県により旧琉球藩領をもって成立。首里・那覇(なは)・国頭(くにがみ)方・中頭(なかがみ)方・島尻方・宮古島・八重山島からなる。廃藩置県は,明治12年4月明治政府によって断行された。置県に伴って那覇の内務省出張所は沖縄県庁となり,県庁には庶務・学校・租税の各課が置かれ,また構内には警察本署と裁判係が置かれた。こうして明治政府は琉球を日本国の一部として位置づけることを強行したが,その琉球政策はなお揺れを伴った。同年7月世界旅行の途次清国を経て日本に立ち寄った第18代アメリカ大統領グラントが,清国の依頼を受けて琉球問題の調停に乗り出すと,政府は日清修好条規では認められていなかった清国内における通商権を欧米並みに獲得する代償として,宮古・八重山の両諸島を清国に割譲するといういわゆる分島増約案を呈示した。イリ問題でロシアとの間に外交紛争を抱えていた清国は,ロシアと日本の接近を恐れて分島案に興味を示し,逆に北方の奄美諸島(鹿児島県)を日本が,南方の宮古・八重山諸島を清国が領有し,中間の沖縄諸島には旧来のように琉球王国を存置するという三分案を呈示した。その後の交渉を経て,明治13年10月日本側の分島増約案で妥結したが,清国側の遷延策によって調印されず,この案は立消えとなった。同21年には,まず沖縄本島および周辺離島の間切・村に各村総代による間切島村歳入出予算協議会が設置され,遅れて同26年に宮古・八重山諸島にもその設置をみたが,旧慣を温存しながらの地方制度の改革は十分とはいえなかった。同29年には国頭・中頭・島尻・宮古・八重山の各地方がそれぞれ郡となり,首里・那覇に区制が施行された。これによって国頭・中頭・島尻には郡長と郡書記が,宮古・八重山には島司と島庁書記が置かれ,沖縄県の地方制度は一応法制的に整った。さらに,同30年4月に政府は沖縄県間切島吏員規程を施行し,役職名の改定と冗員の淘汰を行い,同32年1月1日には20条にわたる沖縄県間切島規程を施行,これまで旧慣によっていた間切・島の行政を,以後郡長・県知事・内務大臣の監督のもとに行わせるようにした。こうした急速な地方制度の整備改革は,同年4月に実施される土地整理事業の準備として行われたことであった。他府県の地租改正に当たる土地整理事業が同36年10月に終了したのちも,旧慣制度の修正は続けられ,同41年4月1日には沖縄県区制の改正施行,同時に沖縄県及島嶼町村制の施行をみた。これらの新制度の施行によって,郡長が兼任していた区長は区会の推薦によって選任されることになり,従来の間切・島および村は町村および字となり,間切・島の長および村頭はそれぞれ町村長および区長と改められた。さらに同42年4月には特別県制が施行され,5月には県会議員の選挙が行われた。ただし沖縄県の島嶼町村制および県制は,他府県とは異なり,特別町村制・特別府県制であった。こうした特例は,大正9年になってようやく撤廃された。なお,大東諸島は嘉慶25年(1820)に発見されて以来,付近を航行する船舶によりその存在が明らかにされ,南ボロヂノ島・北ボロヂノ島・ラサ島と称されていたが,日本政府が公式に調査したのは明治18年のことである。この時国標を立てて沖縄県下に置き,大東島(南大東島・北大東島)と称し,同25年には日本国土であることを公表した。この間管轄は明治24年に那覇区役所に移り,同29年には島尻郡の所属となり,同33年沖大東島を編入した。他府県並みに諸制度は整ったものの,沖縄県は経済的基盤が弱く,大正末期から昭和初期にかけて,ソテツ地獄と称される経済的窮乏に陥った。この危機を脱しきれないまま,県は沖縄戦へと突入する。沖縄戦では,昭和19年10月10日の大空襲,翌20年3月26日の慶良間(けらま)諸島への米軍上陸を経て,同年4月1日には沖縄本島中部西海岸に米軍が上陸,第2次大戦では住民を巻き込んだ国内での唯一の戦場となった。沖縄本島に上陸と同時に,米軍は沖縄における日本政府の権限を停止,軍政を宣言した。同年8月20日,米軍政府の諮問機関として,沖縄諮詢会が発足。同年9月7日南西諸島の全日本軍の代表者と米軍との間で,無条件降伏文書が調印され,沖縄戦は公式に終了した。沖縄戦における住民の犠牲者は十数万人といわれる。その後,米軍政下における沖縄の行政は,沖縄諸島では,同21年沖縄諮詢会が沖縄民政府,同25年沖縄群島政府となり,宮古諸島では,昭和20年宮古支庁,同22年宮古民政府,同25年宮古群島政府,八重山諸島では,昭和20年八重山支庁,同22年1月八重山仮支庁,同年3月八重山民政府,同25年八重山群島政府などと変遷し,同27年4月1日奄美諸島(鹿児島県)を含む琉球諸島を統轄する琉球政府が発足した。同年4月27日対日講和条約・日米安保条約が発効し,日本の独立,奄美・沖縄の行政分離が決定した。昭和20年代の復帰運動から,同28年奄美諸島の復帰を経て,同35年沖縄県祖国復帰協議会を結成。ベトナム戦争の激化に伴い米軍基地の利用・接収が活発になり,反戦・復帰運動は盛上りをみせた。以後,日米両政府間における沖縄返還交渉が始まる。同43年には琉球政府行政主席の公選が行われた。住民の根強い運動により同47年5月15日,日本への施政権の返還が実現し,沖縄県が復活した。県内における復帰当時の米軍基地は286km(^2),同57年9月現在でも253km(^2)で,県面積の11.2%を占める(沖縄の米軍基地)。昭和50年沖縄国際海洋博覧会が本部(もとぶ)半島で開催されたが,これに関連して短期間に巨額の投資が行われ,経済の混乱をきたした。これは海洋博終了後も海洋博後遺症と呼ばれ,企業倒産が相次いだ。しかし昭和52年以降は景気も回復し,上昇の兆しがみられる。自治体数は,明治41年2区1町48村,昭和15年2市4町51村と大東島,同45年9市7町39村,同59年10市15町28村。人口は,大正9年57万1,572人,昭和15年59万27人,同45年94万5,111人,同59年116万7,485人。平成12年自治体数10市16町27村。世帯数46万932・人口132万4,834。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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