東
【ひがし】
(近代)昭和26年~現在の本部(もとぶ)町の字名。方言でもヒガシという。沖縄本島北部,本部半島の西部で,東シナ海に注ぐ満名川下流左岸に位置する。もとは本部町渡久地(とぐち)の一部。町役場所在地。地名は,渡久地の東部に位置したことにちなみ,光が東からさすごとく当地が繁栄するようにとの願望を込めて命名された。大正中期頃まで,現在の通称中通りの北は潟であった。橋がなかったため,通行者は,満潮時には荷物や学用品を頭上にかざして満名川を渡らねばならなかった。大正7年耕地整理組合ができ,満名川の護岸工事や川底橋の架橋工事が行われた。現在の町役場から大嘉陽の入口までは渡久地の馬場といわれ,大正7,8年頃まで昔からの慣行で競馬が行われた。南の山麓に上のヒージャーガー・下のヒージャーガーという2つの湧泉があり,昔から住民や本部小学校の飲料水としてきた。現在もなお利用されている。このほか,集落の中央にあったアズマガワもよく利用されたが,公民館の敷地になり,現在は使用不能になっている。昭和19年10月10日の空襲で本部国民学校は焼失,その跡は戦後,町役場と琉球果樹園芸のパイン工場敷地となった。戦前は水田や畑が多く,民家は主に小学校周辺や伊豆味線道路沿いにあった。戦後は,海外や他府県からの引揚者が多く,また伊野波・並里・山里・大嘉陽などの近隣集落からの転入者も加わり,湿地や水田は埋められ,宅地化が急速に進んだ。しかし,河畔の低地に位置するためしばしば水害を被り,特に昭和44年10月4日と7日に本部半島を襲った集中豪雨による被害は甚大で,半数以上の家が床上まで浸水した。昭和55年地内を通る伊豆味(いずみ)経由の名護線と山里経由の今帰仁(なきじん)城跡に出る県道115号が拡張・舗装されてから,観光バスなど車の通行が頻繁になった。町役場・那覇法務局本部出張所のほか旅館・商店・事業所などがあり,渡久地・谷茶(たんちや)とともに市街地を形成している。昭和53年には本部小学校に伊野波小学校,同55年浜元小学校が統合された。世帯・人口は,昭和30年256・1,320,同40年272・1,299,同50年362・1,533。
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241498 |