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比謝橋
【ひじゃばし】


沖縄本島中部,比謝川下流に架かる橋。庇謝橋・庇謝矼・比謝矼とも書いた。嘉手納(かでな)町嘉手納と読谷(よみたん)村比謝矼を結ぶ。近世期には官道の西宿が通ったが,現在は国道58号が通る。橋名は,かつて比謝村が近くに立地していたことにちなむ。比謝村は比謝川の氾濫に苦しみ,尚灝王代(1804~34)に現在地(読谷村比謝)に移った。比謝橋から嘉手納への天川坂には,慶長14年の島津侵入のとき,熱い粥を流して防戦したという伝説がある。康煕56年(1717)の「比謝矼碑文」によると,康煕55年から56年にかけて,木橋を改修して石橋にした。このとき,細工2,643名・工銀5貫785銭3分,間切夫1万4,320名・工銀14貫320銭,日用夫1,854名・工銀10貫550銭を要した(県文化財調査報告書69)。雍正8年(1730),破損が甚だしくなったため再度改修した。この時は,石細工7,736人2分・工銭1万2,501貫200文,間切夫3万9,391人6分・工銭3万9,391貫600文,諸費銭9,105貫700文,故実2,269貫文,飯米20石2斗8合9勺を要した(重修庇謝橋碑記/同前)。「球陽」には,咸豊2年(1852)・同治4年(1865)・同6年にも改修をしたという記事がある(尚泰王5年条・18年条・20年条)。咸豊3年に来琉したペリーが派遣した内陸探検隊は,ずばぬけて大きな川に,3つのアーチからなる1つの大石橋(比謝橋)が架かるのを見て,橋脚の大きさとその頑丈さに驚いている(ペリー訪問記)。同書では比謝川をフィージャ(Fi-ija)と記している。嘉手納町公民館には,吉屋チルが辻に身売りされるときに詠んだ「恨む比謝橋や情ねん人のわ身渡さと思てかけておきやら(恨むべき比謝橋は,情のない人が,私を渡そうとして架けたのだろう,橋がなければ身売りされずにすむものを)」の歌碑がたつ。また同所には,石橋時代の模型がある。第2次大戦前比謝川は,沖縄八景に数えられた風光明媚な地であった。沖縄戦でも戦災を免れたが,昭和28年鉄桁橋に改築され旧状は失われた。現在はコンクリート橋で,4車線となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241524