本部港
【もとぶこう】

沖縄本島北部の本部半島西海岸,本部町崎本部にある地方港湾。昭和55年に渡久地(とぐち)新港が改称。港湾施設は崎本部北西部の新港地区と崎本部南西部の塩川地区の2地区に分かれる。西側約600mにある瀬底島が自然の防波堤となっていたため,新港地区には王府時代から港があり,古来中国・薩摩航路の起点として利用された。「球陽」に「健堅港を叫びて唐泊と曰ふ」と見え,また「瀬底二仲の洋面は,洵に風波猛起の処所に係り,諸舶湾泊するに」とある港は(察度王条附・尚灝王28年条),いずれも現在の本部港の港湾区域に比定される。明治44年8月27日米国軍艦アルバニー号も寄港している(本部町史)。昭和19年10月10日の空襲には避難停泊中の潜水母艦迅鯨ほか数隻の艦船が応戦したが,港湾施設は甚大な損害を受けた。昭和20年米軍が崎本部小字塩川原を埋め立てて造成し,仮岸壁を建設して砕石および石材の積出施設とした。のちこの岸壁を民間が使用するようになり,昭和47年5月12日には琉球政府が「崎本部港」として地方港湾に指定,同年5月15日本土復帰に伴って沖縄県管理の地方港湾となった。昭和47年沖縄国際海洋博覧会の会場が本部町に決定すると,県外・那覇(なは)からの海上輸送の拠点港が必要となり,昭和47年度から,かつて港があった瀬底島の向かいの崎本部小字石川原地先の海面12万4,800m(^2)を埋め立てて造成し,新港湾の本格的な整備が行われた。昭和48年2月21日,従来の地方港湾区域を石川原地区を含めた区域に変更すると同時に,港名を「渡久地新港」とした。石川原の新港地区には,総事業費約40億円で,昭和49年5,000t級岸壁(水深7.5m)2バース,500t級岸壁(水深4.5m)2バースおよび小型用船舶の物揚場が造られた。大型岸壁は海洋博開催時は大型客船用バースとして利用,現在も貨物船や不定期の客船に利用されている。500t級岸壁は伊江・伊是名(いぜな)・伊平屋(いへや)などの北部離島連絡船の発着基地として大きな役割を果たしている。一方,塩川地区の付近には,沖縄本島で使用される砕石の90%以上を産出する本部町塩川・名護市安和があり,その砕石は塩川地区から沖縄本島各地と南部離島および宮古・八重山各諸島さらに鹿児島県下の離島まで搬出されている。同地区も昭和50年に500t級岸壁(水深4.5m)2バースとなった。同55年4月1日渡久地新港から本部港に港名変更。同57年度の入港隻数3,727,乗客16万1,853人・取扱貸物191万5,068t(うち96万8,966tは塩川地区)。港湾施設の現状は防波堤Ⅰ35.2m・防波堤Ⅱ135.5m・泊地(水深7.5m)1万700m(^2)・泊地(水深4.5m)2,435m(^2)・泊地(水深3.5m)4,190m(^2)・岸壁Ⅰ(水深7.5m)330m・岸壁Ⅱ(水深4.5m)137.5m・物揚場Ⅰ(水深3.0m)185m・物揚場Ⅱ(水深3.0m)60m・船揚場Ⅰ51m,塩川地区は,泊地(水深4.5m)2,435m(^2)・岸壁Ⅲ(水深4.5m)60m・岸壁Ⅳ(水深4.5m)30m。本部港からの定期連絡船は,伊江航路はフェリー城山419tとフェリー伊江島449tの2隻で,平常時1日3便・多客時1日5便,伊是名航路は第三伊是名丸374t1日1便,伊平屋航路フェリー伊平屋500t1日1便。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241884 |