屋嘉比村
【やかびむら】

旧国名:琉球
(近世)王府時代~明治36年の村名。国頭(くにがみ)方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)田港間切,17世紀末大宜味(おおぎみ)間切,同34年国頭間切,同58年からは大宜味間切のうち。沖縄本島北部,東シナ海に注ぐ田嘉里川(屋嘉比川)中流域に位置する。地元ではヤハビという。「おもろさうし」に「やかひもり」が見える。「高究帳」には国頭間切屋賀比村と見え,高頭90石余うち田82石余・畑8石余。「由来記」で国頭間切屋嘉比村と見える。田港間切に属していた頃,親田・見里の両村を分村。山間に位置するため井泉がなく,南に500歩余り離れた崖下の川の水をくんでいたが,井泉までの道は小道で険しかった。雍正12年(1734)村の耕作当宮城が山中から水を引き,水利をよくした(球陽尚敬王22年条)。乾隆18年(1753)国頭在番が,材木を積んだ船の荷改めをするようになった(地方経済史料9)。拝所にトドロキノ嶽・神アシャギがあり,屋嘉比ノロの祭祀(由来記)。屋嘉比ノロは浜・親田・見里3か村の祭祀も管掌した(同前)。神アシャギでは,稲穂祭・ウンジャミなどの年中祭祀が行われ,当時屋嘉比村が属していた国頭間切の夫地頭山川・親田の両大屋子や屋嘉比掟などが供物を出している(同前)。地内クガニヤマ(黄金山)の名は,村の旧家山口家の祖先が種子島(鹿児島県)から連れてきた種子島島主の娘が持参した黄金を埋めたとも,娘が故郷からの船を待ち焦がれたクガリ森の意ともいう(大宜味村誌)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治13年の戸数28・人口161うち男82・女79(県史20)。同36年親田村・見里村と合併し田嘉里村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7241917 |





