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相内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」168石余(田78石余・畑89石余),「貞享高辻帳」210石余,「邦内郷村志」369石余(うち新屋敷此面殿96石余・中御屋敷安房殿100石余・給地54石余),「天保郷帳」355石余,「天保8年御蔵給所書上帳」365石余(御蔵高90石余・御免地高29石余・給所高245石余),「安政高辻帳」285石余,「旧高旧領」424石余。「邦内郷村志」では家数112,馬139,寺社は曹洞宗清光寺,熊野権現,観音堂。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の上,家数78。「雑書」慶安3年3月26日条に「相内御代官」と見え,江戸初期には代官が配置されていたものとみられる。天和2年に切支丹禁制,貞享5年に捨馬禁止の高札が立てられている(御領分高札集)。東は八戸藩領に接し,八戸街道に架かる六枚橋が藩境となっていた。同橋の橋板は各3枚ずつ両藩で負担する慣例であった(三戸通神社仏閣地名書上帳)。馬淵川を境とする藩境は「三戸相内馬淵川内竜之口より高瀬之瀬頭之渡り,古道堺より上之分ハ八戸御領,西片川ハ相内分」と定められていたが(八戸藩日記),洪水で流路が変わるため,寛文9年に「竜之口すはり合より二又御押合申曲目迄荒川」と取り決められている(同前)。当村の西から北にかけて藩営9牧の1つ相内野があり,当村の北に大戸口が設けられていた(九牧図,盛岡市中央公民館蔵)。集落の東端に宝暦年間頃の和算家真法恵賢を祀る白石の地蔵堂がある。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治9年相内小学が発足した。同12年の教員数1,生徒数男33(明治12年公学校表)。明治初年の家数は本村146・沼久保2,地味は菜蓏に最適で,大麦,小麦も生産される。また馬淵川では雑喉魚が捕獲され,五戸道の磨砂は房州産と伯仲するほどの良質という(国誌)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数125・人口599(男329・女270),寺院1,学校1,水車1,牛2,馬72,物産は米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年平良崎【へらさき】村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250011