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浅虫村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「正保高帳」18石余(うち田17石余),「寛文高辻帳」18石余,「貞享4年検地水帳」87石余(田64石余・畑14石余・屋敷地8石余),「寛保高辻帳」18石余,「天保郷帳」136石余(うち弘前本では享和3年改出新田84石余・文化7年改出新田33石),「旧高旧領」150石余。当地は,いわゆる外ケ浜下磯通にふくまれる。貞享4年には伝馬新田・地子新田の2集落を吸収したという(県総覧)。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「内野・蛍谷・山下・坂元(坂本)」があり,反別は田10町4反余・畑屋敷6町7反余(うち出湯4か所をふくめ屋敷地1町余),田は上田から下々田まで,畑は中畑から下々畑まで設定されていた。このほかに見取場(畑)7町1反余,開発可能地(田畑)4町7反余,漆木18本,池床1か所・2町6反余,浜地(塩釜2か所をふくむ)2町6反余,空地3反余,永荒地(畑)6反余,屋敷地以外の出湯場3か所,御休所(御湯坪をふくむ)9畝余,「嶮岨故不及検地」の裸島・湯野島,万正坊抱屋敷地2畝余,八幡社地,弁天堂地が見える。浅虫温泉は弘前藩領内温泉18か所のうちの1つで,藩主の御休所(御仮屋・御陣屋)が設けられていた。享保9年2月の当村の火事で御本陣を焼失とあり(平山日記),これは御休所のことと思われる。また,のち馬場山という字名ができるが,これは藩主が湯治の際に馬場に使用したことによるという(陸奥浅虫温泉案内)。菅江真澄は同温泉について,「外が浜つたひ」の中に「出湯のやかたに宿つきたり,湯は滝の湯,目のゆ,柳のゆ,おほゆ,はだかゆなどのいときよげにわき,はた,軒をつらねたる家々のしりにも,ゆのありてやよけん,里中に烹坪とて,ふちふちとにへかへる温湯あり」と書き記している。また,古川古松軒「東遊雑記」にも,「海浜にのぞみて温泉あり,至ての熱湯にて湯つぼより流れ出る湯,川々へ落て湯気の立あがること煙のごとし」と記される。元禄3年当村は横内組に属し,村位は下(平山日記)。宝暦9年の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は下とある。稲作・畑作のほか,林産業や漁業に従事するものがあった。享保4年には,不漁の時の御救として,久栗坂村とともに以後50年間柏木御立山での杣取を許され,薪炭を青森へ出て売ったという(日本林制史資料)。海岸沿いに奥州街道が通っており,文久4年御領分中道程駄賃定(弘前図書館蔵)によれば,青森~浅虫村の距離は3里21町36間で,夏本荷89文・夏軽尻59文・夏歩行夫47文,浅虫村~小湊村の距離は3里33間で,夏本荷73文・夏軽尻49文・夏歩行夫37文であった。往来嶮岨の地として知られる善知鳥前崎(トウマイの出崎ともいう)は,文化年間まで岬の山を登って牛馬駕輿が通ったが,浅虫村に住む石工某が先祖菩提のためにと,岩を切り開き壁崖を切り崩し,道を繕い桟橋を拡げて,通りやすくしたという(国誌)。嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」には,「トウマイ,大岩石峨々たる難所の道也,右は峨々たる岩壁有,左ハ河岸汐潮満る時ハ通り難し,故に上に材木渡して是を号てカケハシと云,此上を渡る,然れ共風波荒き時ハ通りがたし,扨此処を越し岬を廻りて暫くにして麻蒸村……此処人家五十余軒,小商人漁者農家入交り,村内に温泉三ケ処有,湯治人多く爰に来り,秋に至ると甚群集せり,又村の出口に番所有,此処出入の馬を改るよし,往来の人ニは一向かまひなし,是より浜通り暫く行てカンカケ坂」と街道沿いの状況を記す。なお,カンカケ坂は鍵懸峠のことで,ここから東は黒石津軽氏(文化6年から黒石藩)領であった。神社は,地内山下に八幡宮がある。同社の草創については延暦2年,建久年間,弘安5年の諸説がある(国誌・青森市史)。そのほか湯ノ島に文明年間創立の弁財天堂があったが(安政2年神社書上帳),神仏混淆神社調帳(八木橋文庫蔵)によれば,明治初年の神仏分離に際して廃堂となったという。寺院は,地内山下に青森常光寺末庵の曹洞宗夢宅庵がある。慈覚大師が辻庵を結んで,薬師如来像・地蔵尊を刻んで安置したのが始まりで,これを本尊とする。延宝2年に浮鉄が開基し,元禄6年に常光寺4世雲芸が再建して薬師堂と称した(青森寺院志)。貞享元年に弘前藩4代藩主津軽信政が眼病に苦しみ,夢中の託宣からこの薬師堂に祈願し快癒したので,夢宅の2字を染筆し,代々藩主の祈願所とした。これにより夢宅庵と呼ばれた。のち明治7年同庵は寺格をえて安養山夢宅寺となる(青森市史)。また同寺は津軽三十三霊場の第23番札所でもある。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数77,村況は「田畑少く,且菲确にして作毛薄し,村中温泉あり,浴客を待て口を糊し,或また北蝦夷に渡て傭して家産を資く……当村は湯治場なれは四方より集り浴する者多く,陸運会社なけれとも常に継立多く小店あり」という(国誌)。また,白坂は「本村の西二十町五間にあり,久栗坂村と坂の上に界ふ,或は蛇塚と云ふ」,トウマイ坂は「或は善知鳥坂と云,又湯坂とも云,本村の西八丁にあり,登七十間,昔山下の桟棚修繕なき時時々風浪暴るゝ事あれはこの坂を超て久栗坂村に往来せしと云,今道開けて通行する者なし」とあり,善知鳥前崎は「則トウマイの出崎を云ふ,本村の西南十丁にあり,山岬海面に突出すること四十間余,崖下に径路あり,長三間余・幅四尺の桟棚を設く,前後石を畳み水面より高きこと三間,仰見れは巉岩空に聳て覆か若く傾き崩れんとするの勢あり,稚松矮樹嵓際に生し海潮岩踉を滌ひ,北郡の西北の尽頭及上礒の山々一瞬の間に眺望し佳景の境地たり,旧はこの処桟道山脚潮汐の際に繞らし幅窄くして橋長く危険なること譚るへからす,近年この海岸を鑿ち海を埋め稍愉沢の道たりしに,当年再ひ修繕し牛馬往還その難あるを知らさるに至る」という(同前)。明治11年夢宅寺の一部を借用,仮校舎として浅虫小学が開校,同12年の生徒数男28・女2,教員1(県教育史)。同年の「共武政表」によれば,戸数83・人口507(男271・女236),馬23,人力車11,100石積以下日本形船3,寺院1,学校1,物産は鱈・海鼠。同22年野内村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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