薄市村(近世)

江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。「国日記」元禄12年9月12日条に中里村日蓮宗弘法寺の開基について「薄市村之寺根源は法立寺七代目実成院日光と申僧,慶長之頃弘前より薄市村江隠居仕,其旧跡を実成寺と名付」と見えることから,当村の開村は比較的早かったことがわかる。寛永17年の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)にも当村名が見える。村高は,「正保高帳」147石余(うち田132石余),「寛文高辻帳」153石余,「貞享4年検地水帳」300石余(田224石余・畑屋敷75石余),「寛保高辻帳」153石余,文化6年金氏覚書545石余(中里町誌),「天保郷帳」582石,「旧高旧領」673石余。当村は下之切通沿いに位置し,承応2年の津軽領道程帳(弘前図書館蔵)によれば,中里村~薄市村の距離は1里13町40間で道幅1間半~2間,薄市村~今泉村の距離は7町10間で道幅は「潟ばた故不及記」となっている。この頃十三湖(潟)の汀線が下之切通沿いまで迫っていたことがわかる。また,元禄7年の御国中道程之図(国立史料館蔵)では,下高根~薄市の距離6町,薄市~今泉の距離18町50間とある。天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)によれば,下ノ切御代官所支配の新田として薄市地子新田が見える。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「飛石・花もち・玉清水・老の坂・中沢・嵐谷・萩原」があり,反別は田24町3反余・畑屋敷23町余,このほか八幡宮の社地・境内林4町6反余,観音道の堂地などがある。元禄3年には金木【かなぎ】組に属し,村位は中(平山日記)。文化6年の金氏覚書によれば,反別は田65町9反余・畑屋敷15町2反余,家数72,人数403,うち男209・女194,馬75,船9,うち三人乗3・秣苅船6,また,村内には鍛冶・宝家業・下大工・小売店・豆腐が各1軒ずつあった。当村には,東部山間に田野沢村・追子野木村という支村があったが,ともに天明の飢饉時に廃村になったという(国誌)。両村は廃村後それぞれ当村に吸収されたものと思われるが,田野沢村はのち分立する。神社は,地内沖原に八幡宮がある。同社の建立年月日は不祥であるが,「安政2年神社書上帳」によれば,正徳年間は金木村長十郎禰宜預かり,享保2年松橋与太夫へ譲渡されたが天明の飢饉時に死絶,のち松橋遠江預りとなり,天保6年村方により再建されたという。このほか,地内北部の山頂に津軽三十三観音第15番札所である観音道がある。同堂については,寛政8年当村を訪れている菅江真澄が「外浜奇勝」の中で「臼井地(薄市)といふ村中の田の沢川を橋よりわたりて,そばだつたか山のすえに,観世音をあがめまつる,攀のぼれは刀舎(十三)の水海,このもかのもの木の中より見やりていと涼し」と記している。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に属す。明治3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を論し,これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われたが,同4年の金木組村々士卒水帳によれば,当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子200俵1人,80俵4人であった(弘前図書館蔵)。明治初年の戸数57,村状は「村居は山に倚り,田多くして畑少く,土地は中之中,余隙炭薪を採て産とす」という(国誌)。明治8年地租改正による調査書によれば,当村の山林反別は民有山林5町7反余・官有山林5,510町余,このほか民有秣場24町余があった。明治9年頃田野沢村を合併。同10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数76,人口506,うち男266・女240,物産は米・薪炭・屋根板・檜材。同10年成田多次郎宅に薄市小学が開校,同12年の生徒数22,ただし男のみ(明治12年公学校表),同14年に字飛石に校舎新築,同19年に薄市簡易小学校と改称(県教育史)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数76・人口477(男251・女226),馬42,物産は米・大豆・檜・薪・炭。同22年内潟村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250287 |





