榎林村(近世)

江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。七戸通に属す。村高は,「邦内郷村志」「天保8年御蔵給所書上帳」ともに279石余(うち給地78石余),「旧高旧領」301石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,「仮名付帳」には花松村の枝村として記される。明和7年七戸御代官所惣高並村家数書上では,村高282石余,家数61うち本村28・中村27・貝塚6。「邦内郷村志」では,家数32(うち貝塚2),馬150。「本枝村付並位付」によれば,位付は中の中,家数39(うち給人23)。寺院には,寛永11年七戸村瑞竜寺4世即翁明守の開山による曹洞宗榎林山長昌寺がある。幕末期に20数年間にわたり中林専右衛門が塾を開いた。また花松村で塾を開いた荒木田政吉が当村に移ってからはその跡を継いだ。明治2年七戸藩領。同4年七戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の戸数110,村況は「土地膏腴,然れとも田少し,農を専とし産に牛馬あり」とある(国誌)。また支村として貝塚(家数5)・李沢(同8)・甲田(同11)・寺沢が見えるが,江戸期は李沢と甲田は甲地村の枝村,寺沢は天間館村の枝村であったことから,明治初年に当村に編入されたものと考えられる。明治6年榎林小学が開校。同11年上北郡に属す。同年頃の村の幅員は東西1里余・南北約18町,税地は田107町余・畑180町余・宅地11町余・林9町余・山1町余・秣場41町余・原野113町余・萱野29町余など計494町余,戸数112・人口757(男385・女372),牛56・馬282,耕作4,寺院1,学校1(生徒男22),物産は米538石余・糯22石余・稗208石余・大豆93石余・粟105石余・そば324石余・小豆16石余・麻苧169貫目余など(上北郡村誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数89・人口645(男328・女317),牛51,馬212,学校1,物産は米・檜・大豆・蕎麦・稗。同22年天間林村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250337 |





