大畑(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ大畑村,昭和9年からは大畑町の大字。明治24年の戸数380・人口2,231,厩35,学校3,水車1,船165(徴発物件一覧)。役場・営林署・郵便局・銀行などの所在地で下北半島北部の要衝である。地内薬研は景勝の地として知られ温泉があり,下北半島国定公園の一部に指定されている(下北地方誌)。大畑小学校は,明治23年小目名簡易小学校・同25年赤川簡易小学校を再び併合,小目名分校・赤川分校設置。明治24年関根橋分校・同37年木野部分教場・大正6年二枚橋分教場が設置。同7年大畑農業・水産補習学校併設(同15年青年訓練所充当となり,昭和10年公立大畑青年学校となったが,同23年閉校した)。同9年字伊勢堂の現在地に新校舎竣工。昭和9年赤川・木野部両分教場を統合,佐助川分教場として設置(同16年昇格独立,同22年には国民学校から佐助川小学校と改称し,同29年には佐助川中学校併設)。昭和22年大畑中学校併設,同年二枚橋分教場・同26年小目名分校・関根橋分校昇格独立,それぞれ小学校となる。小字は,かつて支村であった湊・小目名・高橋川・孫次郎間・釣屋浜・二枚橋・木野部・赤川の他に東町・本町・新町などがある。字湊の大畑港は河口港で,大正7年頃改修工事に入り,以後漁船200隻を安全に碇繋するまでに至った。同地区の新保嘉太郎は,函館の海産物商の地元出先機関として下北北部地区の海産物を買い付けて資本を蓄積,大正後期には漁船の動力化を最初に実施した。昭和の初期イカの豊漁のため川崎船の往来が多く,特に函館の定期回漕出張所が開設され,函館経済圏の一部に含まれた。昭和48年第4次大畑漁港修築事業ならびに町営魚市場が竣工。漁船の増加と大型化により同54年第6次漁港修築事業が開始,同57年から第7次漁港修築事業が進められ今日に至る。大畑川左岸の字小目名では昭和11~12年に共同檜縄工場を2棟建設,副業の女子が従事した。芸能に餅つき踊りがあり有名である。小目名地区より少し下流の字高橋川の男子は,明治以後国有林の伐採事業に働き,婦女子は農耕に従事することを常とした。明治初期より昭和初期まで副業として檜縄を製造していた。津軽海峡に面した字孫次郎間・釣屋浜・二枚橋・木野部・赤川は半漁半農を生業とし,夏季はイカ・イワシ,冬季にはサメ漁を主業とし,女子は農業を主としていた。昭和初期には発動機船の所有者が出はじめ,イカ釣り漁業に主力を置くようになった。字木野部では明治33年頃佐助川浜に鮪大謀網を建て,万本祝を2度行ったことがある。同45年には鮪大漁記念のため漁場経営者により八大竜王の碑を建立した。また昭和53年生活改善センターが完成,同54年には県立少年自然の家の建設工事が着工され,翌年完成した。大畑の中心街である字東町には昭和45年大畑中央公民館・体育館を新築落成。さらに同54年大畑町役場庁舎を新築落成し,周辺に消防署・派出所などもあり,近年官衙の町の様相を呈してきている。字本町は寺町的性格を有し,文化財的墓碑も多い。正教寺境内には,菅江真澄と交友を深めた高松喜太右衛門の「うき世にはたれ残るべき山ざくらその落葉こそここにくちなむ」の碑がある。また「原子謾筆風土年表」52巻を著した村林鬼工・漢詩人菊池九江の墓が大安寺にある。字新町は北通随一の商店街として発展してきた。大畑の産業の根幹をなすものは水産業と林産業である。近年主幹産業であるイカ釣り漁業・製材業とも不振の傾向にあるが,サケ・マスのふ化養殖・アワビの増殖,ワカメの養殖などに力を入れ,転換をはかっている。また国鉄大畑線の廃止反対ともからんで原子力船むつの定係港誘致の陳情に乗りだし話題となったりした。世帯数・人口の推移は,昭和30年1,993・1万971,同年50年2,777・1万817,同55年2,805・1万449。うち昭和50年の地内の主な字の世帯数・人口は,港村321・1,378,小目名49・196,高橋川11・51,孫次郎間122・535,釣屋浜47・242,二枚橋122・577,木野部41・184,赤川40・197,東町194・673,本町280・972,新町242・874。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250394 |





