蒲野沢(近代)

明治22年~現在の東通村の大字名。明治24年の戸数98・人口770,厩舎83,学校3,船40(徴発物件一覧)。蒲野沢尋常小学校の鹿橋分校・石持分校は,昇格独立と併合とを繰り返し,大正10年鹿橋尋常小学校・石持尋常小学校となる。昭和22年蒲野沢小学校に中部中学校併設,同年鹿橋,田代,猿ケ森,砂子又に,また同23年石持にそれぞれ分校設置。同24年字野牛道に新校舎新築移転(小・中学校共用)。同26年同中学校は蒲野沢中学校と改称。同26年石持分校は昇格し石持中学校となる。また同26年鹿橋小学校に中部中学校が併設され,同29年昇格,鹿橋中学校となる。かつて支村であった石持地区では,明治から昭和にかけて,浜納屋漁業が発展した。昭和16年頃イワシの不漁があり海への依存は絶望的となった。現在は田畑が主となり,共有林の商品化・造林が行われつつある。同じく支村であった鹿橋地区では,共同所有の山林を昭和7~9年の間に30町開田した。第2次大戦後には軍馬の需要停止による馬産の衰退,特に昭和24年放牧地の過半を米軍演習地として接収されたために急激な減少をみせた。世帯数・人口は,昭和45年238・1,222(蒲野沢94・487,鹿橋63・319,石持81・416)同50年237・1,166(蒲野沢95・463,鹿橋58・320,石持84・383),同55年226・1,015(蒲野沢87・401,鹿橋56・265,石持83・349)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250631 |





