剣吉村(近世)

江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。名久井通に属す。村高は,「正保郷村帳」164石余(田89石余・畑74石余),「貞享高辻帳」164石余,「元禄10年高帳」448石余(田233石余・畑215石余),享保10年336石余,宝暦11年332石余(出町家文書),安永5年297石余(名久井通村高目録),「天保郷帳」483石余,「旧高旧領」249石余。大部分は八戸藩の御蔵地。検地は,延宝2年・元禄7年・享保11年・明和5年・文政11年に行われた(八戸藩日記)。延享3年の家数120・人数453,馬数132(概説八戸の歴史)。剣吉館跡の南西部に曹洞宗石田山陽広寺がある。本尊は釈迦牟尼仏。寛保4年の「諸寺院寺号山号帳」に「名久井法光寺末寺剣吉村 石田山陽広寺」とあり,慶長年間の草創,開基は北信愛,開山は法光寺5世久山という(御領内寺院来由全)。「国誌」では,寛保3年法光寺9世嶺内の開山という。その隣に,寛文年間の草創という諏訪神社がある(国誌)。大同2年田村将軍利仁の草創と伝えられている(剣吉諏訪神社縁起)。稲荷神と火産霊神の2神を合祀する。青銅の柄鏡が残存し,その裏面には,「教師窮釈真法慧賢」の銘が刻まれている。真法慧賢(恵賢)は,寛保~宝暦年間の頃八戸にいた曹洞宗の名僧で,法光寺で仏門に入り,江戸に出て和算を学び,八戸に帰って多くの子弟を導き,八戸和算の開祖といわれ,宝暦3年没している(概説八戸の歴史)。昔から,諏訪神社の祭礼が行われなければ剣吉に大事が起こるといわれているのは,この火産霊神との関連があるらしい。剣吉は,八戸と盛岡藩領三戸の往来(剣吉通・名久井痛とも呼ぶ)の中間に位置する交通の要衝であったので,寛文7年には御茶屋が建築され(八戸藩勘定所日記),貞享4年遊行上人はここで休憩,茶を喫している(八戸藩日記)。寛文12年制札場が設けられた(同前)。幕府巡見使は,八戸より三戸へ向かう途中,寛文7年・天和元年・享保2年・延享3年・天明8年・天保9年とその都度当地で昼憩している(同前)。延宝2年六日市が許可されその後幾度か中断復活を繰り返し,五日市に変更したこともあったが(八戸藩日記・八戸藩勘定所日記),のち再び六日市に戻っている。宝暦11年5月「御巡見劔吉御宿亭主江被仰付覚」(出町家文書)によれば,当地の献上物は菱喰【ひしくい】・初鮭・ショヨ(薯蕷)・雉子・両鶴【なべつる】,劔吉より三戸迄の道法3里余,石盛は上田1石2斗・中田1石・下田8斗・下々田6斗,宿駅として町場が形成され,町数は荒町・中町・上宿の3町で間数は約300間,家数67・人数375,馬数35,酒屋2。上宿は上町の宿の意とみられる。中町を中心として町屋が形成され,宝暦年間頃には,藩の御勝手仕送方を命じられ,献金により明和5年に藩士に召し出された喜八郎を始め(八戸藩日記),近江屋・岩木屋・橘屋・丸屋・形屋・元屋などの商人がおり,酒屋・質屋・呉服屋等を経営していた(出町家文書)。のち移出商人になった宇兵衛も当地出身(同前)。延宝2年には藍商人久作がおり,文化8年には宇兵衛が,文政7年には近江屋が,名久井通の紫根買入方を命じられている(八戸藩日記)。延享4年頃には馬宿もあった(八戸藩勘定所日記)。延宝2年藩は寺師田野を開設し野立所とする計画を立てたが,百姓たちの訴願により中止となっている(八戸藩日記)。天明2年総馬改場所に指定され,安永元年塩の販売が許可された。同7年鍬鋤類の鉄荷改所,天明2年には魚荷改所も命じられている(八戸藩勘定所日記)。寛延2年から当地~湊村(現八戸市湊)間で,艜【ひらた】による大豆の川下げが頻繁に行われるようになり,のち春木・材木などの川下げも行われた。享保14年・寛政6年には盛岡藩の大豆の川下げにも利用されている(八戸藩勘定所日記)。明和元年には通舟勝手次第とされたが(八戸藩日記),同4年には,川通証文制を復活している(八戸藩勘定所日記)。馬淵川は当時,町場のすぐ南側の低地を流れており,町屋の南東端に舟着場があったが,藩はその重要性にかんがみ,文政6年銭305貫文余を,天保3年には963貫文余を,剣吉川普請経費として投入した(八戸藩日記)。元禄12年に剣吉足軽常番組へ碑を2駄ずつ下賜しており(八戸藩勘定所日記),当時は足軽も常住していたようである。不・凶作の常襲地帯ではあったが,比較的上質米が産出されたらしく,文化元年以降たびたび藩主の御前米の供出を命じられている(八戸藩日記)。凶作の度ごとに藩から穀留役人が派遣され,飢饉ともなると,貞享4年を始めとし,たびたび盛岡藩領の山野での山菜採りを願い出ている(同前)。名主・庄屋がともに置かれたが,通常庄屋は町におかれたので,剣吉は町並みに取扱われたと考えられる。剣吉の名主(御蔵名主)は隣村の斗賀村・虎渡村の御蔵地の名主をも兼帯し,庄屋もまた同じであった(同前)。延宝8年5月3日,櫛引・苫米地【とまべち】の百姓とともに当村百姓も伝馬・一里番役のうちいずれか一方の免除を藩に願い出ている(同前)。元文5年10月16日,藩主は御用金上納などの功により,当村喜八郎・久兵衛・丸屋孫兵衛・長右衛門・甚三朗・孫十郎・宇兵衛・名主清次郎に,鶴の黒焼を下賜している(同前)。寛保3年11月6日剣吉村庄屋善右衛門が,11月3日の火災の際,制札を残らず運び出して焼失を免れたので,褒美として鳥目50疋を下賜されている(同前)。また天明7年にも御用金上納に精励したかどで剣吉庄屋喜右衛門が鳥目疋を下賜されている(八戸藩勘定所日記)。宝暦6年には剣吉村死絶者13人,天保9年には前年の年貢不納者は剣吉村だけでも29人あり,ことごとく処分されたと考えられる(八戸藩日記・八戸藩勘定所日記)。安永3年には,剣吉村南東対岸の森越村との渡船に繰綱の使用を願い出て許可されている(八戸藩勘定所日記)当時,馬淵川は剣吉集落のすぐ南側を流れていたが,大雨の度に氾濫を起こしたことと,灌漑工事が発達していなかったことにより,流域には田は形成されていなかった。当時の田は,集落の東西の2つの大きな沢を主体として形成されていたと考えられる。粟・稗などの雑穀は,集落後方丘陵地帯の緩斜面と馬淵川流域で生産されていたものであろう。剣吉川下げの主要物資であった大豆は,主として,丘陵地帯の山地を利用した焼畑農業によって生産されたものと考えられる。当地方で広く豊凶占いに利用されていた東方作には,占いの対象品目として黒稲・白稲・赤稲・わせ・なかて・おくて・麻・粟・稗・大豆・小豆・麦・そば・黍などがあげられている。また換金作物として藍が栽培され,紫根も採取されたと思われる。馬産も盛んで馬神であるお蒼前様の名をとった蒼前上・青前下などという字名もある。枝村に剣吉山・寺下がある(国誌)。剣吉山は当村の西方山地にあり,その下に寺下がある。寺下には小祠寺下観音がある。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の戸数は本村117・寺下2・剣吉山3(同前)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数139・人口774(男412・女362),寺院1,学校1,水車1,牛5,馬126,人力車2。立花幸三郎は文政10年~明治7年まで寺子屋を開いていたが,明治9年同宅を校舎として剣吉小学が創立した。同10年八戸警察署内剣吉分署が設置された。同11年剣吉小学は字大坊に校舎が新築され移転した。同年剣吉郵便局が創立。同14年明治天皇は巡幸の際,当村中町出町家で休憩し昼食をとった。同22年北川村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250834 |





