七戸村(近世)

江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。七戸通に属す。大正19年九戸の乱で滅ぼされた七戸氏には七戸家国家のほかに七戸伊勢慶道家があったとされる(武田七戸系図/参考諸家系図)。名門七戸氏の滅亡を惜しんだ三戸南部信直は一時七戸を直轄地とし代官横浜左近をおき,やがて浅水城主南直勝に七戸氏の名跡を継がせ,慶長2年直時が七戸城主となり2,000石を領した(野辺地氏系図/参考諸家系図)。直時は盛岡藩重役として三戸または盛岡出仕が多く,七戸には城代が置かれた。寛永20年,直時は閉伊郡山田村に漂着したオランダ船を捕え300石を加増された。正保4年直時が死亡し,宗家南部利直の第5子重信が継いだが,寛文4年重信は宗家第29代を継ぎ,以来七戸は藩の直轄地となり,24~26か村をもって七戸通が組織され,当村に代官所が置かれた。代官所設置は,承応年間から寛文年間におけてのことと思われる。以後代官支配が続くが,明治2年七戸藩が成立し,当地を居所とし,七戸城下を形成したが,まもなく同4年廃藩となった。村高は,「正保郷村帳」341石余(田248石余・畑92石余),「貞享高辻帳」426石余,「邦内郷村志」1,382石余(うち給地526石余),「天保郷帳」828石余,「天保8年御蔵給所書上帳」1,540石余(御蔵高828石余・給所高711石余),「安政高辻帳」664石余,「旧高旧領」1,643石余。「仮名付帳」では,当村内に小川町・下町・本町・横町・新町などの名が見える。「邦内郷村志」によれば,家数483(ママ),集落別内訳は本町27・横町25・下町50・小川町50・新川原町23・向町6・袋町15・南町21・新町43・川原町14・大林6・作田5・左組10・倉岡16・見町17・荒屋10・中村13・野左懸27・沼野沢4・八栗田5・道地11・別曽9・山屋6・八懸田8・高屋館(敷)7・西野25・和田30・一丁ノ木3・小田子2・半田1・門前6・寺下7・林6。「本枝村付並位付」によれば,位村は中の上,家数378,集落別内訳は本町28(うち給人8)・横町23・下町23・小川町37・新町35(給人11)・袋町12・南町31(給人7)・新河原町17・銀南ノ木3・川去3(給人1)・川原町13(給人7)・浦町12・向町26(給人18)・小田子7(給人7)・和田14・西野7・高屋敷3・見町6・荒屋5・中村6(給人2)・八掛他7・山屋3・野左懸7・沼ノ沢3・別曽6・道地7・八栗平3・作田12(給人7)・左組5・倉岡10・治部袋2(給人2)・寺平2。家数の激減は天明3・4年の飢饉の影響が大きいと考えられる。奥州街道の宿駅であったため呉服屋・薬屋・質屋・旅籠などが立ち並び,8の日に三斎市が開かれ,町並みも形成された。当村のみの名主(肝入)はおらず,元和元年以降七戸通のうち南川目通・上川目通の計49か村を統轄する世襲大肝入として当村の元右衛門が元和元年の大坂夏の陣の功により任用された。正徳年間分家松助に上川目通の大肝入役を譲り,以来2家にて両通の大肝入を分担した。本村部分は御町通と呼ばれて検断が置かれ,行政および治安の任に当たった。検断は世襲ではなく,有力な商人が任用された。村は水利に恵まれているが,夏季冷温をもたらすヤマセ常襲地帯に属し,稲の斗代は上田で9斗,下々田で5斗と低く,畑地が多いため大豆・小豆・麦類・粟・稗・蕎麦などの雑穀の生産が主であった。大豆は「御用大豆」として藩が買い上げ,野辺地港から上方に輸送され,馬は秋の馬市で売られ各地へ運ばれ,天間館村から産出するヒバ材は当村で柾に作られ主として八戸村方面に売られた。当地在住の給人(郷士)たちは知行高を増やすため盛んに新田開発を行い,近村の天間館村・三本木村・大浦村その他の村々の新田をも開いている。百姓一揆は,延享2年の南川目通の知行地百姓による知行主排斥一揆,寛政8年の馬売買税の増税反対一揆と嘉永6年の夫伝馬税の公平賦課要求一揆,同年の別段御買上大豆反対一揆,および明治3年の七戸通惣百姓一揆の5件が起きている。特に七戸通惣百姓一揆は七戸藩領38か村全村による一揆で,五戸通の七百村,七戸通の新館村の枝村八幡村に屯集,七戸へ押しよせて強訴に及び,豪商舟人屋儀兵衛を襲った。指導者の戸館村治郎兵衛・新山村の新山助右衛門は一時投獄され,一揆は前後4日にして収まった。大凶作は元和3年をはじめ,寛永17~19年,元禄7・8年,宝暦5年,天明3・4年,天保3~9年などに発生し,多数の餓死者を出した。大火は安永3年10月15日に下町・小川町・横町・袋町など目抜通りの160戸・3,200世帯を焼く。天保9年3月16日の大火では川原町・川向・城内のみを残し市中の7割を焼失,青岩寺も炎上した。豪商では江戸中期近江商人の流れをくむ大塚屋が出て,ほかに江州屋・松坂屋を経営し,呉服・酒造・薬種・質屋業を営み,盛期には資産1万両を超えた。ついで浜中屋・岩城屋・舟木屋などが栄えたが,近江舟木村出身の舟木屋は6隻の千石舟を用い手広く交易を営み,江戸末期当地方随一の豪商となった。教育では,江戸末期,給人の子弟は儒者米田義幸・義章父子に,その他は寺子屋,または医師鷹山立益・神官榊原氏などについて学んだ。芸能には36代藩主利敬が領民教化のため始めたという「親孝行踊」がある。村内には見町観音堂・小田子不動堂のほか,永禄元年創建の曹洞宗祥雲山瑞竜寺,天正10年創建の浄土宗竜泉山青岩寺,承応元年創建の曹洞宗円通山金剛寺がある。神社は,延元3年の創建と伝える上川目神社,応永3年の建立の住吉神社(見町観音堂),同年建立と伝える七戸神明宮,新山神社などがある。明治2年七戸藩領。同4年七戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初期には,村内の町場化した地を七戸町と称することもあり,七戸町のうちには川向町・小川町・下町・横町・新町・下川原町・柳町・袋町・後小路・南町・浦(裏)町・本町・新川原町・川原町・石神通の各町があった。明治初年の戸数は城内11戸を除いて548戸,うち七戸町の各町は川向町65・小川町29・下町24・横町28・下川原町10・柳町9・袋町26・後小路7・南町34・浦(裏・裡)町15・本町25・新川原町19・川原町37・石神通(屋敷のみで居家なし),七戸村の支村としては向町49・川去3・立野3・大池8・膝森2・荒熊内6・治部袋5・倉岡15・銀南木2・作田14・和田13・高屋敷3・八掛田8・山屋6・上川原2・山館2・西野14・萩野5・八栗平5・別曽8・道地6・見町9・横長根1・荒屋6・中村9・沼ノ沢5・野左掛3・寺下8・長久保6・左組4。また,町場の様子については「市街は南北に長し,土地は広野に続き,且水沢汚地ありて民家清潔ならされとも,八日十八日二十八日と毎月三度市立ありて,四方相会し交易繁盛なり,且五戸・野辺地の半程なれは上下の旅人多くは皆この町に止宿し,旅客も多く集り,産に繭糸あり又多く蚕種を出す。郵便陸運両会社を設け」るとある(国誌)。明治5年の戸数706・人口4,102(男2,081・女2,021)。同11年上北郡に属す。同年頃の町場の長さ10町38間,村の幅員は東西約5里,南北約2里,税地は田200町余・畑954町余・宅地57町余・林47町余・山22町余,秣場195町余・野原300町余・萱野31町余など計1,825町余,戸数695・人口4,217(男2,152・女2,065),牛201・馬2,396,人力車20,神社2・寺院3,学校1(生徒男114・女28で計142),物産は米896石余・糯21石余・稗1,459石余・大豆1,145石余・麻664貫目・繭約45石・生糸約5貫目など(上北郡村誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数574・人口3,394(男1,726・女1,668),牛175,馬1,523,荷車2・人力車20,物産は米・檜・大豆・蕎麦・稗。明治6年頃七戸小学,同13年上北中学校,同15年初等師範学校を創立。同17年には野々上小学が開校。七戸藩主信方の父信民の産業奨励により,畜産・養蚕業が進み,馬鈴薯栽培も盛んとなり,旧有力給人ならびに豪商により萩沢牧場および浜中牧場・盛田牧場などが開設された。同21年の田258町余・畑1,036町余・宅地62町余・山林原野2,182町余(土地台帳)。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7251103 |





