中市村(近世)

江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属す。慶応3年の給人は簗田大之進99石余・中西栄65石余・円子左右見35石余のほか盛岡光台寺150石余などであった(五戸町誌)。村高は,「正保郷村帳」228石余(田160石余・畑67石余),「貞享高辻帳」285石余,「邦内郷村誌」576石余(うち給地454石余),「天保郷帳」も576石余,「天保8年御蔵給所書上帳」598石余(御蔵高118石余・給所高480石余),「安政高辻帳」462石余,慶応3年「五戸通代官所惣高書上帳」(五戸町誌)618石余(蔵入高158石余・給所高460石余),「旧高旧領」618石余。家数198,本村を除く集落別内訳は浦田22・大久保5・清三久保8・横倉5・栗木新田2・八幡新田2・高屋敷3・松山6・小渡5,馬数225。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の中,家数112,集落別内訳は本村66,浦田17・横倉5・大久保4・清三久保4・松山4・小渡り7・八幡新田2・栗木新田3・高屋敷2。当村北東にある大久保は南部氏家臣の系譜を持つ大久保氏が移住して開村した草分け集落と伝え(倉石村史),大久保氏の同族集落であった。元禄11年には旧姓の麦沢弥五右衛門が切米を得ている(同前)。同地には薬師寺の廃寺跡があるという。石盛は上田1石2斗・下々田6斗,上稗田7斗・下々稗田4斗,上畑9斗・下々畑3斗(郷土史叢5)。嘉永3年の「被遣知行書替百姓小高」(倉石村史)によれば,高20石余の五戸御給人円子周作は,当村で10石余(実算11石余),又重村で8石余を領していたが,当村は8人の百姓で平均持高1石余であった。これに対して光台寺領150石余は27人の百姓で平均持高5石余と高い持高となっていた(同前)。安政6年の円子半九郎給地の定役銭(小物成)は,52石余の土地に春上げ・夏上げ・秋上げ万所金3歩8分3厘1毛,御餌鳥・黒尾代844文,御役薯蕷66文,御役雉子326文,御蔵普請314文,井戸普請105文,1月・4月・8月戸割4貫554文,午年の雑事金残り1貫550文,辰・巳・未年納2貫523文,明屋敷175文,不時銭471文,合薬蔵157文,江戸詰夫262文,御陸夫157文,中津川1貫321文,又重御野1貫321文であった(同前)。円子氏給地の永代売渡証文をみると,宝永~享保年間は永代売渡屋敷手形,寛保~寛延年間は金・作物を担保とした借用手形,天明飢饉時は田畑・屋敷を担保とした手形,文政~天保年間中頃までは永代売渡証文手形が多く,特に文化~天保年間にかけては有合手形が集中している(同前)。五戸川の両岸の台地は山林が豊富であり,山守の円子佐覚の植立証文によると,2分8分の歩合で,文政12年には横葉山のうち平通沢合と同館平へ杉3,000本,同萱ノ下へ杉307本,同横葉へ杉421本,天保7年より弘化2年には源野坪山のうち三沢へ杉1,370本,清三窪山のうち中道へ杉340本,清三窪村尻坂へ杉270本,上清三窪家の後と屋敷添居久根へ杉47本,同井戸頭へ杉140本,石沢口のうち下清三窪村の下井戸上へ杉112本,清三久保山のうち下清三窪家の屋敷居久根添へ杉40本,天保10年より同15年には清三久保山のうち井戸頭へ小杉200本,横葉山のうち館平へ小杉200本,清の窪山のうち井戸頭へ小杉200本,同井戸頭続へ小杉200本が植立てられている(同前)。また天保2年には円子半九郎が知行地内の清三加久保山と畑へ漆150本,横葉山と畑へ漆100本を10年間で植立したい旨願い出ている(同前)。五戸川左岸の山中にある相間野には又重牧の牧袋跡が所在する。年代不明の又重牧絵図(同前)に「御野馬野捕仕候土手数百間」とみえる。中市城跡の北側の五戸川に面した丘陵地には馬の訓練に利用したとみられる馬場跡が残る。五戸川からは当村の中央付近で用水が引かれ,左岸の山際へ運ばれて五戸村北部の沖積平地に引水される用水堰がある。中市箇口と呼ばれるが(通称大堰【おおせけ】),開削は建武2年に五戸を領した三浦介平高継によるとの所伝をもつ(同前)。しかし,五戸川を堰止めて引水していることから,土木技術水準の発達した近世以降の開削と考えられる。しかも,開削者は南部藩主利直が五戸の木村杢へ用水堰の普請を指示していることから(木村家文書),江戸初期頃木村氏の手によってなったものと推定される。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て同4年青森県に所属。同16年第21組に属し,翌年当村ほか2か村の戸長役場が設けられた。明治初年の戸数は本村81・向平6・松山7・小渡9・八幡新田2・高屋敷2・栗木新田1・大久保4・清三久保3・浦田30・横倉7・相間野2・水上3(国誌)。源福寺をもととした寺子屋があり,明治9年頃廃業したとされる。明治9年源福寺を仮用して中市小学が創立し,生徒は男17。同11年字中市へ校舎を新築して移転,同21年に横倉に分校を開設した(県教育史)。地内に高良神社がある。はじめ毘沙門堂と称したが明治初年に改称し,村社となる。宝暦年間頃の別当を法泉坊といい,五戸年行事多門院の配下にあった。九戸郡軽米(現岩手県軽米町)六面から剣吉山を経て又重村の水上,当村の浦田・ブドロクを通って七戸へ至る山中には鉄などの輸送に使われた牛方街道があったと伝えられる(倉石村史)。ブドロクには繋場があり,牛方小屋が明治期まであったという。明治12年の「共武政表」によれば,本村の戸数96・人口560(男295・女265),学校1,寺院1,水車1,牛13,馬78,字浦田の戸数32・人口206(男108・女98),水車2,牛110,馬49,物産はともに米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年倉石村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7251763 |





