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長科村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田として村名が見え1,213石余,「寛保高辻帳」1,213石余,「天保郷帳」813石余(うち弘前本では砂入川欠517石余),「旧高旧領」622石余。元禄3年には後潟【うしろがた】組に属し,村位は下(平山日記)。当村付近は夏に東北風の冷風が吹き,しばしば農作物の被害あった。安永7年は被害が大きく,藩に対して年貢の銀納を願い出て許可されている。その際に作成された中沢村・長科村畑方銀納仕上ケ留帳によれば,当村では畑方1町5反余のうち古畑1町余が銀5匁余,開足并新開畑5反余が銀1匁余となっており,字名として「鶴蝮・川瀬・浦田」が見える。伊能忠敬「測量日記」によれば,享和2年には当村は中沢村の枝郷とあり,家数12軒。また,天明3年の大飢饉の時には大量の荒地が生じたと思われ,同書に「右海へ一丁,左畑二丁斗,夫より先も田地なりしが村々共に卯年より荒地になると云」と見える。のち,文化6年御郡在開発田方調帳(国立史料館蔵)によれば,享和3年から文化2年までの3年間に8町6反余の荒田が復興されている。当村の灌漑用水はおもに長科川からとっていたが,ほかに溜池が1か所あり,水下反別は5町9反余となっている(蓬田村史)。また,安政6年弘前藩浦町横内油川後潟四カ組秣場炭焼元帳によれば,当村の秣場は4か所,炭焼地1か所,萱仕立場1か所があった。神社は字川瀬に稲荷神社があり,県庁所蔵の社寺明細帳には「草創年月不詳,貞享年中建立ノ由」とある。なお,同社はのち明治6年から同8年まで後潟村の後潟神社に合祀されている。明治初年には坂本万蔵が開いた寺子屋が当村にあったという(同前)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の戸数40,村況は「往還を夾て両側に住す,土地中,畑少し,小店酒肆あり」という(国誌)。同10年頃の陸奥国津軽郡村誌によれば,戸数40・人口281,馬59,船30(50石未満回漕船1・艀漁船29),税地は田80町余・畑7町7反余・宅地7町4反余・原野9町1反余・秣場14町9反余の計119町3反余,物産は米・大豆・鰈・鱈・海鼠。同12年の「共武政表」によれば,戸数42・人口329(男175・女154),馬57,物産は米・鰈・海鼠。同22年蓬田村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251792