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中村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。別所村・中下村・片屋敷村はそれぞれ当村から分村して成立した村というが,その時期は不詳。村高は,「正保高帳」443石余(うち田408石余),「寛文高辻帳」443石余,「貞享4年検地水帳」870石余(田784石余・畑屋敷85石余),「寛保高辻帳」443石余,「天保郷帳」721石余(うち弘前本では享和3年改出新田170石余・文化7年改出新田107石余),「旧高旧領」985石余。江戸初期に当地方を管轄した代官として「中村西浜代官,斉藤掃部助」の名前が見える(津軽一統志)。「慶安2年道筋帳」には,鰺ケ沢【あじがさわ】村の大道(西浜街道)から中村の間の小道があり,横沢までの距離は1里という記載がある。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「山野井・清水崎・さかり山・山本・笠野前」があり,反別は田73町5反余・畑屋敷24町6反余(うち屋敷地2町1反余),このほかに御蔵1か所,永荒田畑3町4反余,空地2地域7反余,草山,沼地2か所・2反余,見取地(畑)1町5反余,開発可能地(田畑)7町8反余,池床2か所,漆木1,156本,薬師堂地(検地)・山神社(除地)・熊野堂地(除地)・稲荷社地(除地)が見える。また,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定され,石盛は上田1石3斗,上畑6斗。水田耕作を主とする村であるが,林産業・製紙業・養蚕などに従事する者も見られた。「国日記」博文11年2月2日の条によれば,西浜中村の山楮を採るにあたって紙漉役を銀あるいは和紙で納入するよう命じた記載がある。同書元禄13年4月4日の条には,当時領内で養蚕が行われていた100余か村の中の1村として当村があげられている。また,同書享保18年10月日の条には,中村山のうち「清水滝沢・ぬんはいの沢・芦之沢・さかき川沢・中之俣沢・清水淵沢・前之川沢・小沢・岩部屋之沢」での木材伐採が許可されている。元禄3年には赤石組に属し,村位は上(平山日記)。江戸後期のものと思われる亥年御郡内沢目村々田畑戸数調帳によれば,反別は田59町3反余・畑屋敷22町3反余,家数48。神社は,永禄年間創立の薬師宮・深山宮・万治元年創立の幸神宮,正保2年創立の稲荷宮があった(享和3年寺社領分限帳・安政2年神社書上帳)。薬師堂(薬師宮)は寛政5年久須志宮と改められたという(西津軽郡史)。深山宮は深山神社となるが,旧来から久須志神社の相殿であった。のち,明治6年当村の稲荷神社・猿田彦神社が久須志神社に合祀されている(国誌)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年西津軽郡に属す。明治2年の郷村高戸数人口租税書では,戸数91・人口534,馬140。明治初年の戸数68,うち支村間木12,村況は「土地肥膏,農隙には縄綯ひ,薦を織を業とす」という(同前)。明治9年大宮村・片屋敷村・中下村・別所村を合併。同10年中村小学が開校,開校時の生徒数男21,教員2(県教育史)。なお,同校の開校は明治9年10月ともいわれる(西津軽郡史)。同12年の「共武政表」によれば,戸数88・人口455(男207・女248),馬181,学校1,物産は米・糯。同22年中村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251850