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新井田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。寛永4年根城南部氏の遠野移封により新田氏も従い,新井田城下の町家は新たに作られた八戸城下に移され,八日町・十八日町・廿八日町を形成したという(八戸藩史料)。村高は,「正保郷村帳」では新田村と見え267石余(田133石余・畑133石余),「元禄10年高帳」では新井田通村として698石余(田232石余・畑466石余),うち新井田422石余(田199石余・畑223石余),田向211石余(田25石余・畑186石余),岩淵65石余(田8石余・畑57石余),「天保郷帳」513石余,「旧高旧領」430石余。盛岡藩領時代は「雑書」正保元年11月29日の条に「八戸二井田御鳥見大坂四郎兵衛今廿七日病死之由,滝沢三郎右衛門,野矢半左衛門今日以書状言上」,同じく同2年1月3日の条に「新田,島森辺御鳥見大坂四郎兵衛代ニ石橋八郎右衛門,同心五日市作之丞被遣」とある。承応2年新井田川の洪水により田畑に被害を受け,寛文元年には火事で渇命の5人に米一駄ずつの借用が許された(雑書)。領内制札場の1つで,天和2年切支丹禁制・捨馬禁止の2枚が揚げられた(八戸藩日記)。元禄3年の家数は塩入を含め102軒で,ほかに対泉院の拝知8軒,岩泉作兵衛の拝知1軒があった(御領内巡見覚帳/大館村誌)。西に新井田橋が架かり,寛文7年8月の「八戸藩日記」に「馬渕大橋,十日市橋,新井田橋,右三ケ所破候事」と見える。明和2年の「八戸藩勘定所日記」によれば,橋の規模は長さ27間・繰数10繰・幅2間半であった。高山彦九郎の「北行日記」寛政2年9月13日の条に「仁井田入口三十間余りの圯橋を渡る。宿らん事を乞へども許さず」とある。新井田橋の下流には川筋の山々から伐採された材木の留場があり,明和3年3月の「八戸藩日記」に「御下屋敷御材木段々川下ケ付新井田留場ニ而若留兼候御材木湊辺迄押流候ハゝ村々ニ而取上候様御代官江被仰付」,文政7年8月の「八戸藩勘定所日記」には「新井田春木留破候」とみえる。春木場の小名が現在に残る。在地の有力商人に松橋孫助が知られ,天和3年に酒屋を営み(八戸藩日記),天文2年には千石船を建造して廻船業も手がけた(八戸藩史料)。享保13年には帯刀を許されたほか,領内総山支配ともなった(八戸藩日記)。火事は,元禄14年3月に42軒,文政6年11月に31軒,同10年10月に5軒を焼失(同前)。寺は,新田氏の菩提寺と伝える曹洞宗の貴福山対泉院,八戸藩3代藩主通信の生母浄生院を弔うため一族の松橋家が村内の阿弥陀堂に法号を安置して浄生庵としたのが始まりという浄土宗の涼雲山浄生寺がある。対泉院は領内10か寺の1つで,寛文7年領内曹洞宗惣録の打診を受けた(同前)。門前に天明4年建立の餓死万霊などの供養塔があり,前年の飢饉で領内総人口6万5,000人余のうち3万人余が死に絶え,新井田・十日市・田向・塩入・岩淵の男女1,418人中696人が餓死,家数272軒のうち136軒が潰れたと刻まれている。浄生寺は,寛保3年の「奥州南部糠部順礼次第全」に「新井田浄生寺観音」とあり,糠部【ぬかのぶ】三十三観音第8番札所とされる。神社は,新井田城跡に新田氏の祖神とされる新田八幡宮,北の岩淵に別雷神社がある。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」によると,家数は本村139,支村の野場10・塩入14,本村の状況については「外館・石橋・松山等の小名あり。外館は本村の南二丁にあり家数三軒,石橋は東一丁にあり家数四軒,松山は家数八軒北一丁を隔つ。共に農耕を専とし,又工商酒戸等あり」と記す。なお,同書では岩淵村は独立村となっているが,ほどなく当村に編入された。また,支村の野場は妙村に属するようになったものとみられる。明治12年の「共武政表」では,家数174・人口1,239(男635・女604),馬105,牛3,学校1,寺院2,物産は麦・雑穀・蔬菜・酒・麻糸・鳥類・米。なお,同所では野場は妙村の字名となっている。明治9年新井田小学が開校し,同12年の生徒数は116(男104・女12),教員数2(明治12年公学校表)。同22年大館村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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