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浜通村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。江戸期は湊・鮫を中心とする約10か所の浜・浦から成る村であった。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。元和3年盛岡藩主南部利直によって田名部【たなぶ】が藩直轄地とされ,根城南部氏の給所が田名部から八戸へ移されるが,その時の書状に「八戸山川海之儀一色ニ台所入ニ尤候,則浜之各所,一大くき,一金浜,一小くほ,一大じや,一たね指,一白浜,一小清水,一さめみなと,一もろこし沢,一しろかね,一ふたこし,一ミなと,一竹かはな」と23か所の浜が記されており(遠野南部文書),早くより浜・浦が分かれていたことがわかる。なお,同年利直から新田政広に「弐十一村・みなと,ふつし浜右三ケ村其方へ遣候」(三翁昔語)と給されており,法師浜など当村の一部は新田氏の給所となっている。翌4年の利直から根城南部氏にあてた知行状には,「拾八石三斗四升 二子石」「六拾八石弐斗五升九合 浜通」「八拾六石六斗五升八合 新田分之浜通」「八拾六石六斗五升八合 種差」「拾九石九斗七升 大くき」と見え(遠野南部文書),当村の大部分が根城南部氏の給所であったことがわかる。寛永4年根城南部氏の給所が遠野に移され,当村域は藩直轄地となったと思われる。「正保郷村帳」では,浜通村の村高は89石余(畑のみ)とある。八戸藩領となってからの村高は,「貞享高辻帳」89石余,「元禄10年高帳」では浜通村のうちの1村として見え349石余(田9斗余・畑348石余),「天保郷帳」362石余,「旧高旧領」529石余。なお,「元禄10年高帳」に見える浜通村は浜通・金浜の2か村からなり,高は425石余(田27石余・畑398石余)とある。八戸藩領となってからの当村は,新井田川河口部の湊にはじまり,白銀・二子石・持越沢・鮫・白浜・深久保・種差・法師浜・大久喜と海岸沿いに連なる10か所の浜から成る村で,この10か所の浜には本枝村関係は見られず,浜通村は総称ともいえる。行政上の中心は湊であり,湊が10か所の浜を代表した。藩政上,石高把握では浜通村と一括されていたが,八戸藩の物資の出入口である港としての機能が重視され,八戸湊・八戸浦と把握される場合の方が多かった。一般に湊・白銀浜・鮫湊をあわせて八戸湊と称した。また,浦支配上では,当村域は湊とそれ以外の前浜通に分けて管轄されることが多い。当村では港・浦としての機能が高く,漁業・塩生産のほか造船も盛んであった。宝永3年には御舟奉行が海運担当の御浦奉行と漁業担当の川口奉行とに分かれ(八戸市史),翌4年には湊に十分一役所が設置され漁船・漁獲が川口奉行の管轄下に置かれた(八戸藩史料)。享保16年領内船改によれば,八木浦(現岩手県種市町)から湊までの船総数273・網大小28・塩竃35,ほかに前浜通に丸木船3とある(同前)。延享4年浦数覚では,八戸廻22浦のうちに当地域の浦として湊・白金・二子石・持越沢・鮫・白浜・深久保・種差・法師浜・大久喜の各浦が見え,八戸藩領の浦役は,廻船等は1艘につき年7分2厘5毛,2人乗漁船5分,同板船1匁3分,小網1駄につき年324文,漁船大1貫300文・小500文,塩釜1工につき年1両とある(同前)。「八戸藩勘定所日記」宝暦12年8月18日条の鰯釜改によれば,湊村62工(うち粕釜10工・小釜3工)・白銀村12工(うち粕釜4工・小釜6工・大釜2工)で,総計55貫500文の運上を浦奉行に上納している(八戸市史)。このことから,当村では〆粕・魚油の生産が盛んであったことがわかる。同書明和6年6月7日条によれば,湊村では〆粕3,210俵・魚油848樽,鮫村では〆粕120俵・魚油40樽を生産したとある(同前)。のち〆粕は藩の専売品となる。寛政8年漁船書上帳(上杉家文書)によれば,前浜通の船数101,うち二人乗84・網取船5・鮭鱒船2・地引船5・積分船1・瀬取船1・鰤船1・鱈釣船1・蕪島渡船1,湊の船数115とある。このように漁業が活況を見せると専業の日雇労働者が出現し,こうした人たちによって白銀と湊の間に汐越の集落ができた。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」によれば,「明治五年壬申戸籍改革ありて十村を併て浜通村と編籍したるにて,旧来より本村支村の差等あるにあらされは十村を支村とも呼かたし」と10か所の浦をそれぞれ1村として扱っている。この時の家数は計501である。ただし,明治7年の県管内村名簿では,浜通村を本村とし,湊村・白銀村・二子石村・持越沢村・鮫村・白浜村・深久保村・種差村・法師浜村・大久喜村を支村としている。明治になってからは行政上浜通村1村として扱われた。同年通称白銀の漁民清水弥四郎が鮑取器を考案,沿岸の各村に普及の通達が出された(県史)。明治8年当村支村鮫村の秋葉神社の境内に鮫小学が開校,開校時の生徒数男64・女75,教員3,同9年白銀村に清水小学(のちの白銀小学校)が開校,開校時の生徒数男34,教員2,同年白浜村に白浜小学(のちの種差小学校)が開校,開校時の生徒数男41・女7,教員1,同10年大久喜村に大久喜小学が開校。また,明治9年湊村に生徒男129・女33,教員4で開校した湊小学(のちの小中野小学校)は,同12年小中野村に移転し,同19年湊村に新たに湊小学(のちの湊小学校)が開校する(県教育史)。明治12年の「共武政表」によれば,当村のうちの湊村(小中野村もふくむ)の戸数692・人口4,600(うち湊360・2,558),牛10・馬186,人力車25,船6,物産は麦・雑穀・乾物・酒・魚類・麻糸,また,白銀は戸数206・人口1,464,馬126・船1,鮫は戸数144・人口881,牛9・馬21,人力車4,船8(西洋船1),白浜は戸数34.人口267,馬47,二子石は戸数18・人口139,馬13,持越沢は戸数21・人口144,牛15・馬19,種差は戸数22・人口218,馬40,法師浜は戸数14・人口138,馬23,大久喜は戸数38・人口316,馬39とある。明治22年のうち湊・白銀は湊村の大字浜通,鮫・持越沢・二子石・白浜・深久保・種差・法師浜・大久喜は鮫村の大字浜通となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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