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藤崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。慶長14年の革秀寺宛津軽信枚黒印寺領宛行状に当村名が見え(津軽家文書),天和4年の藤崎村絵図には枝村として松の木村・根子橋村・地子新田・御伝馬新田・本引御新田が見える。このうち根子橋村は「貞享郷村帳」に寛文4年以後の新田として当村とは別に高付けされており,貞享元年以前に当村から分村した。また,松の木村は貞享4年に岩井村と改称し(平山日記),享保11年当村から分村した(村名改称并新村創立調)。村高は,「正保高帳」「寛文高辻帳」ともに917石余,「貞享4年検地水帳」2,501石余,うち田1,807石余・畑屋敷694石余(屋敷地8石余),「寛保高辻帳」917石余,「天保郷帳」1,022石余,「旧高旧領」2,903石余。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「豊田・村井・岡本・二本柳・若松・浅田・下川原・冨永・川合」があり,反別は田163町余・畑屋敷148町1反余(うち屋敷地13町4反余),また郷蔵屋敷,村中抱えの田畑地8町余,弥陀薬師堂地16歩,漆木2,294本,鷹待場としての留林3か所127町余,古館3か所11町余,沼1か所2町余,空地3町余,永荒田畑1町余があり,ほかに除地として孫十郎抱えの地蔵堂,吉宮太夫抱えの屋敷1反余と水神社地,円太夫抱えの毘沙門堂9歩と16歩,大宮太夫抱えの八幡社地1畝がある。天和4年の村絵図では家数307,うち本村57・新田227などが記されている。寛文4年藤崎遣,貞享4年藤崎組が編成され,代官所は寛政11年の戸数改図によれば毘沙門宮社家小笠原対馬宅の向かいに置かれている。元禄3年には藤崎組に属し,村位は上(平山日記)。宝暦4年座頭喜見都が親孝行により弘前町奉行所で金200疋の褒美を与えられている(平山日記・永禄日記)。安永4年医者日野朔安が綿作の指導をしている(平山日記)。天明3・4年の飢饉では当村付近も被害が大きかった(同書)。羽州街道の宿場であり,延宝4年御伝馬新田が設けられ(平山日記・永禄日記),また文久4年には黒石・夕顔関・板屋野木・柏木への分岐点になっている(御領分中道程駄賃定)。平川には渡場があり,現在も通称舟場の地名が残っているが,天和4年に「舟場之坪下々畑」とあるのみで(村絵図),その役割は明らかでない。慶長14年浅瀬石川から取水する藤崎堰の破損をみかね,堰八村太郎左衛門安高が人柱となった(津軽藩旧記伝類)。正保2年太郎左衛門を祀る福田宮堰神社が建立され,元禄5年には藤崎・横沢・枝川・五所川原堰の水下農民が氏子となっている。元禄2~4年平川から通称白子【しろこ】で取水する五所川原堰が藩によって開削されている。毘沙門宮は,明治3年の神仏分離で鹿島神社と改称される旧郷社で,坂上田村麻呂が田舎郡浪淵村の水中で,背丈8丈の鬼面の恵美高丸の霊を退治し,かたわらの木を切って毘沙門像を安置したのが始まりと伝えられる(安政2年神社書上帳)。旧村社八幡宮は藤崎城の館神と伝えられる(同前)。寺院は浄土宗摂取院,浄土真宗称名寺・真蓮寺,日蓮宗法光寺がある。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年南津軽郡に属す。明治初年根子橋村・岩井村を合併。なお,旧岩井村の地は現在の字松野木にあたる。神官藤井・安倍の2寺子屋が,同8年藤崎小学へ引きつがれ,同12年の教員数4,生徒数は男155・女20の計175(明治12年公学校表),同20年高等小学校を付設(南津軽郡是)。明治初年の戸数449,村況は「三方に田圃を開き土地膏腴にして米穀豊なり,陸田は藍に宜く,菜は葱・牛蒡・胡蘿蔔に適ふ」とあり,また「商工雑居し,店上に百貨雑陳し,酒估茶店あって区中の冨邑なり」とされ,伝馬町・新町・木挽町・横町・下町・本町・館町・表町・舟場町・後町新田などの通称町名がある(国誌)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数438・人口2,647(男1,330・女1,317),学校1,人力車22,馬88,物産は米・大豆・菜種・藍葉のほか,白子春慶塗がある。同22年藤崎村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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