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又重村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属す。慶応3年の給地は八木橋徳次郎134石余・又重忠左衛門83石余・伊藤吉代見56石余・大須賀九郎右衛門53石余・小菅佐宮52石余・吉田道衛47石余などのほか,又重牧野守2人が各5石となっていた。また免地高は又重牧の野守寅蔵8石余・同宇之助7石余であった(五戸町誌)。村高は,「貞享高辻帳」430石余,「邦内郷村志」775石余(うち給地535石余),「天保郷帳」も775石余,「天保8年御蔵給所書上帳」778石余(御蔵高243石余・御免地高15石余・給所高519石余),「安政高辻帳」621石余,「旧高旧領」778石余。「邦内郷村志」によれば,家数198,本村を除く集落別内訳は冬名7・盛田9・外館11・下町22・中館5・遣水15・北向29・水上3・戈助1・沼沢7・山田6・太田24・谷地中13・高屋3・宮台5・古川代22・館向5・芦名沢4。なお馬数の記載がないのは又重牧の関係とも思われる。「本枝村付並位付」によれば,家数156,位付は中の中,集落別内訳は本村6,外館7・下町15・中館6・冬名7・森田7・遣水14・北向23・沼ノ沢7・水上2・古川代19・宮台4・谷地中12・太田19・山田6・館向2。「国誌」に又重は旧は鑓水と称したとあり,本村は鑓水のように記載されているが,「本枝村付並位付」によれば鑓水は枝村とされていることから,本村は下町を含めた現在の館町ではなかろうか。館町は又重城とその城前に発達した館集落的様相を呈しており,現在の通称名として上ミ町・下モ町・中町・前小路・後小路などの町名が残っている。地内の草分け的集落としては冬名がある。当地は鑓水の肝入の本田家の祖先が九戸の乱の落武者として最初に草鞋をぬいだ場所といわれ(倉石村史),古い館跡の場所と伝えられ,古神社がある。石盛は上田1石2斗・下々田6斗,上稗田7斗・下々稗田4斗,上畑9斗・下々畑3斗(郷土史叢5)。天保5年の「作人書分ケ帳」(倉石村史)によると,当村の蔵入地は,岡本孫左衛門・沢田市郎左衛門・沖重兵衛・桂和泉の上地や桂源五左衛門の替地と金目高地とを合わせて223石余で,173人の百姓によって耕作されており,持高の最高は7石余,1人当たりの単純平均の持高は1石余と零細経営となっている。万延2年の当村の肝入クラスの百姓の手作り高は7石余となっている(同前)。安政元年の当村の向堰の田形改によると,8,965速苅(約89反余)の面積を37人の百姓が耕作しており,1人当たりの平均面積は2反余(同前)。嘉永7年の大須賀権兵衛給地の年貢は,本高58石余,御役高50石余に対して,77貫余が金納(金目)されている(同前)。寛保元年の諸士の新田開発奨励策に基づき当村のうちの前川原通に円子氏が高5石,寛保3年には又重氏が尻地頭に高5石の開田を行っている(同前)。天明3年は大飢饉であったが当村の惨状については,「天明三年卯凶作之事」(同前)によると,「又重村中ニ家数百七拾軒余有之候処ニ,牛馬不喰者ハ山田五軒,太田ハ弐軒,鑓水弐軒,館町畑ケ中壱軒,小川代弐軒,〆拾弐軒,是ハ牛馬不喰也」とあって大切に飼養していた牛馬を食して飢えをしのぎ,かつ「又重村ハ能キ村方之内ニテ餓死人半分也」とみえている。当村の古川代には,五戸通の鍛冶小頭の竜助がおり,鍛冶職を支配していた(同前)。支配範囲は不明だが文化13年に五戸村応助に鍛冶小頭職を譲渡していることが知られる(同前)。当村の北から下市川村の西に至る五戸川左岸の丘陵地には藩営牧場の又重野が開かれていた。規模は「郷村古実見聞記」に長さ6里ほど,横2里ほどとある。開設の年代は不詳だが,永正年間には「中伊手」「またしげ」(馬焼印図)の牧がみえているから,この頃にはすでに開かれていたのであろう。藩営牧としては,「奥隅馬誌」によれば藩主南部重直代に又重兵部より献ぜられ,藩営牧として開設されたものとも,あるいは正保3年に開設されたものともいう。馬数は宝暦5年父馬1,母馬58,2歳牝10,当歳牝12,当歳牝5の85疋で,明和6年は父馬1,母馬67,2歳牝9,当歳牝8,当歳牡6の計91(奥隅馬誌)。牧野に由来する地名に牧内・牧内沢・間木などがある。また馬の調教・訓練に利用したとみられる馬場跡が五戸川右岸の館町と冬名の近くの丘陵地に残る。又重牧の野守は当村に助蔵,宇之助の両名が居住し,各々知行高5石のほか,助蔵には8石余,卯之助には7石余の免高が給されていた(倉石村史)。由緒書上(柳沢家文書)によれば,卯之助の先祖小太郎は元禄17年の任用に始まる。文政4年には,野守の宇之助・茂兵衛の両名が牧袋の普請と飼草建場の新規土手普請を願い出ている(倉石村史)。天保7年野守両人は備荒用の囲稗30石余を貯穀している(同前)。当村には五戸年行事多門院配下の修験の三明院がおり,新山権現の別当となっていた(多門院文書)。同権現は明治以後新山神社となり,村社に列した。伝承によれば,元禄2年五戸代官木村秀晴の勧請といい(五戸町誌),村の鎮守となっている。例祭日には鶏舞を奉納。牧野の開設から馬神の信仰も広く行われ,幕末の「萬覚扣帳」(倉石村史)によれば又重村の神社仏閣28か所中,6か所が正善堂(蒼前堂)となっている。地内の通称「はなれ森」には,八郎太郎が五戸川を堰止めて丘をつくったという伝説があり,牧内の牧内沼には沼主の怪魚が潜んでいたといい,館町には大火の時空を飛んだ「飛び権現」がいたと伝えられる(倉石村史)。地内の支村の北向には丹内沢の上流から引水した「門堰」用水路が流れる。明治元年弘前藩,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て同4年青森県に所属。明治初年の戸数は本村20・沼の沢8・北向35・谷地中15・太田29・山田9・中館21・館14・森田12・冬名6・古川代19・宮台9・芦名沢3・牧内2・館向3(国誌)。明治初年頃館町に私塾があったといわれ,明治9年鑓水の通称学校屋敷に又重小学が創立(又重小学校百年史)。なお「県教育史」には同年寺院を仮用して発足し,生徒数男33とある。明治12年の「共武政表」によれば,本村の戸数23・人口139(男75・女64),学校1,牛1・馬30,字太田の戸数32・人口204(男105・女99),水車1,牛9,馬59,同谷地中の戸数19・人口104(男54・女50),水車1,牛4,馬48,同北向の戸数38・人口219(男110・女109),水車2,牛2,馬75,同館町の戸数42・人口270(男139・女131),水車1,牛12,馬81,同古川代の戸数24・人口144(男79・女65),寺院1,牛7,馬32,物産はともに米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年倉石村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252401