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目名村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部通に属す。村高は,「正保郷村帳」63石余(田56石余・畑7石余),「貞享高辻帳」79石余,「邦内郷村志」96石余(うち畑11石余),「天保郷帳」96石余,「安政高辻帳」79石余,「旧高旧領」96石余。「邦内郷村志」では,家数21,人数163,馬119,牛75。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数23。鎮守は神明宮(目名神社)で,慶安3年再建の棟札があった。ほかに高館采女の守護神といわれる熊野社があり,草創は大同元年と伝えられる。また年月は不明であるが,菊池平次なる者が甲斐国より来村して居住し,自覚院と称して修験となり,以後菊池家は下北各村の獅子振り(回り神楽)行事を認可する権限をもっていた。当村の神楽は,師職目名権大夫の伝えたものといわれ,また下北一帯の神楽の源流ともいわれている(下北の村落社会)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の戸数41,村況は「土地悪く水田少し,農隙には薪を采り又菅莚を織て産とす,壮者は北地に出傭す」とある(国誌)。同11年下北郡に属す。同12年の「共武政表」によれば,戸数31・人口251(男127・女124),馬122,学校1,物産は稗・粟・大豆・蕎麦・馬鈴薯・杉材・松材・薪。同年目名小学が開校,同15年の生徒数は男子のみ15(県学事年報)。当村の枝村になる根津屋村は立山あるいは根津屋新田ともいわれ,地名は開拓者佐賀平之丞の屋号にちなむ。平之丞は下風呂村の海運業者で,明治元年花巻より土工50人を雇い入れて開拓した。入植者ははじめ6戸であったが3年間で12戸となり,その間米・味噌を供給して耕耘した。同14年明治天皇が東北・北海道巡幸のとき,北白川宮能久親王から,開拓村として根津屋新田が褒賞された。「国誌」には「本村の北十五丁曠野の中にあり,家数八軒」とある。明治18年根津屋の木村理吉夫婦を殺害し放火した,いわゆる万平事件が起き,これが有名になり芝居にも仕組まれた。同22年東通村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252543