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赤林村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。紫波【しわ】郡のうち。盛岡藩領。向中野通に属す。村高は,「正保郷村帳」199石余(田171石余・畑27石余),「貞享高辻帳」234石余,「邦内郷村志」952石余(うち給地170石余),「天保郷帳」952石余,天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」952石余(御蔵高781石余・給所高170石余),「安政高辻帳」763石余,「旧高旧領」976石余。「邦内郷村志」では,家数77(集落別では羽場18・鎌淵10・南屋敷8が見える),馬83。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の中,家数66,集落別内訳は釜淵10・大渡野2・上浅子21・銅屋4・川久保7・前郷10・林崎9。江戸前期から中期にかけて150年間で村高が約4倍の増加となっているのは,寛政2年鹿妻穴堰が開通し,また寛延2年その新堰(上堰)の完成によって用水の事情が好転したことによるのであろう。新堰は,当村浅子留で鹿妻本堰から分水することを願い出て,藩が寛延元年3月6日から3月25日までに下検分を行い,翌年3月10日から3月20日まで工事を続け「新堰長八百弐拾竿半ノ処成就仕候,両年ニ御人足参千九百人,見前通・向中野通弐拾ケ村」から動員されて,ようやく開通したものである(寛延2年新堰来歴定目)。その新堰の水懸高は,寛延3年の「新堰来歴定目」に「赤林村升穎横留高百四十五石半」とある。この結果,当村の東部水田地帯への水不足は解決されている。しかし,上堰の上方にあって河川によって灌漑されている水田は,水田が増加し続ける中で広宮沢村などとの分水紛争がすでに天正年間に発生し(川くるみ沢状/南部叢書1),その後も続発していた。安政2年の「続川くるみ沢状」(南部叢書1)で,広宮沢村と当村の間の水論の決裁方法を見ると,川くるみ沢は「平年水不足無之節」においてすら番水を行うが,その時間は当村が暁六ツ時から昼七ツ時まで,広宮沢村が昼七ツ時から明六ツ時までと定めている。また,旱魃の時はそのつど特別に取り計らうことにするから,用水の末端の当村は遅滞なく届け出るようにと申し渡している。天保5年藩は稲荷街道の開削をし,全線にわたり松並木の植立てと一里塚の築造を計画。実際に施工されたのは,当村の崖から志和稲荷社までの区間であり,崖の西方に一里塚が築かれた(升沢志和稲荷社文書)。明和8年「赤林沢御山材椚御林木数」および元治元年の「御山帳」(小笠原家所蔵)によると,鹿妻上堰に沿い白山神社付近の平地8町にわたる椚留林(藩営林)があり,その林相が知られる。元治元年には,椚166本,うち目通り7.5尺~7尺廻のもの31本。栗318本,うち5尺廻のもの20本,雑木1,000本,松56本とあり,明和8年に比較すると著しく良くなっており,この約100年間にほとんど伐採されていないように思われる。地内には,明和元年と嘉永5年の再興棟札があるという白山神社がある(紫波郡誌)。明治元年松代藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同10年の村の幅員は東西約12町・南北約21町,税地は田115町余・畑135町余・宅地12町余・鍬下24町余など計289町余,戸数78・人口383(男187・女196),馬61,職業別戸数は農業74,物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・蕎麦・大角豆・蘿蔔・茄子・南瓜,字堤上にある溜池は縦横ともに108間で,当村の用水に供されていた(管轄地誌)。同12年見前小学校の学区から分離し,同15年赤林小学校を設置した(煙山小百周年記念誌)。同20年赤林小学校・下矢次小学校・煙山【けむやま】小学校の3校が統合され,上矢次村に矢次尋常小学校が設置された。同22年煙山村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252793