薄衣(中世)

戦国期に見える地名。岩井郡東山のうち。大永~天文年間と推定される葛西奉加帳に,「一貫文 薄衣 平重持」と見える(県史2‐755頁)。当地は千葉系薄衣氏の本拠地。同氏の始祖千葉弥四郎胤堅が鎌倉期の建長4年当地に下り,翌5年一城を構築,その後,弘長元年奥州一方奉行人となり,子孫が当地中心に繁衍するようになったという。鎌倉期以来,葛西氏と姻戚関係を結び,明応年間頃には大崎探題に属す。年欠(明応8年か)極月13日付で薄衣美濃入道経蓮が「御奉行所」(大崎氏か)に宛てた薄衣状は,明応7・8年の葛西領動乱を伝える(県史2‐151・658・708・721・750・976頁など)。その後の薄衣氏の動向は不明。おそらく明応の兵乱で没落したのであろう。ただ,永禄4年11月,鳥畑越中守胤堅と薄衣上総介清正の合戦が諸系図等で知られる(県史2‐976頁)。戦国末期には,当地には千葉源次郎や小野寺三郎左衛門尉の所領があった。千葉源次郎の所領は3,000苅で天正7年3月10日,葛西晴信から富沢日向守の兵乱の軍功として給与されたもので(石越千葉氏系図所載文書),小野寺三郎左衛門尉の所領3,000苅は,同じく葛西晴信から浜田広綱の兵乱での恩賞として給与されたものである(保呂羽小野寺公夫氏所蔵文書)。薄衣城は米倉館・搦手館ともいう。薄衣元町の北上川河畔にある巨大な山城。東西300m・南北250m,比高100m。千厩【せんまや】川と北上川合流点を北端として,南面に遺構が展開する。北部の断崖上に物見台,その南方に三の丸,その南西に本丸・二の丸が連なる。本丸と三の丸は空濠で区切られ,二の丸の西面は北上川に面して断崖となる(仙台領古城館)。「伊達家文書」慶長5年8月10日の葛西大崎船止日記に「一,うすきぬの内 ふね五そう」と見えるが,薄衣城は北上川の河川交通を扼す天嶮の要害である。地内にはこのほか,野手貝に鈴館跡,柳沢に丑久保館跡,石畑に石畑館跡,矢作に矢作館跡・泉田館跡,外山に外山館(西大立目館)跡があり(仙台領古城館),鎌倉期元亨年間から室町期応永年間までの紀年板碑など,中世板碑数十基も散在する(岩手の歴史論集2)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253038 |





