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太田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。和賀郡のうち。盛岡藩領。沢内通に属す。中世末から近世初頭にかけて和賀一族須々孫氏から分かれた太田氏が当地を領有,太田民部少輔義勝は盛岡藩主南部信直に出仕,太田に住して800石を知行した(奥南落穂集)。義勝の嫡男久義は慶長18年南部利直に仕え500石を知行,その弟義房は300石を知行する。なお,太田氏は寛文4年義政が早世して知行没収,同氏の知行地は藩直轄地となる。沢内通ははじめ雫石【しずくいし】通代官の管轄下,のち,寛文12年に沢内通専任の代官が任命された。なお,代官が任地で職務をとったかは不明で,天和2年新町村に置かれた代官所にはじめて代官が着任したという(沢内年代記)。村高は,「正保郷村帳」では村名が見えるが無所務,「貞享高辻帳」では見えず,「邦内郷村志」458石余(うち給地38石),「天保郷帳」430石余,「安政高辻帳」では見えず,「旧高旧領」459石余。当村はもと猿橋村と一村であったともいわれる(邦内郷村志・管轄地誌)。「邦内郷村志」によれば,家数174,ただしこの家数は猿橋村・前郷村分をも含むため,当村分は太田村61・飯豊1・鍵沢7の計69。「本枝村付並位付」によれば,位付は中の上,家数78,集落別内訳は本村59・鍵沢9・飯豊10。天保8年「御蔵給所惣高書上帳」では,御蔵高421石余(うち古荒川欠28石余)・給所高38石余。米作が中心であったが,山間の高冷地であるため冷害になりやすく,当地域は元禄年間から明治期の約180年間に不作以上の減作が53回,うち凶作・大凶作(飢饉)が45回あった(湯田町史)。「村づくし」によって各集落ごとの特産物・名勝および旧家名を見ると,太田は銀杏・太郎治家,飯豊は七ツ釜・治左衛門家,鍵沢はシメジ・作右衛門家(猿橋郷土読本)。往還は盛岡城下から山伏峠・川舟を経て,新町・越中畑・白木峠に至る山形街道が南北に通り,和賀川東岸沿いに小舟から湯本に至る向路が同じく南北に通る。また当地から真昼山を越え秋田千屋村に至る善知鳥【うとう】道も利用された。元禄12年太田番所が置かれる(郷村古実見聞記)。沢内三か寺の1つ曹洞宗一点山玉泉寺は正保4年の創建,同じく真宗大谷派本宮山碧祥寺は寛永2年前郷村で建立,寛文3年現在地に移転,同じく浄土真宗本願寺派東沢山浄円寺は寛永4年善証庵として創建され,延宝2年浄円寺となったという。明治元年松本藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年西和賀郡に属す。明治7年太田小学校創立,同20年新町小学校と併合し,太田分教場となる。明治10年の村幅員は東西28町・南北32町,税地は田73町余・畑64町余・宅地7町余・鍬下17町余など計172町余,戸数87・人口495(男262・女233),馬101,神社3・寺院3,公立小学太田学校の生徒数18(男のみ),職業別戸数は農業81,物産は馬・鶏・鱒・山魦・米・大豆・小豆・粟・稗・蕎麦・大角豆・栃実・紫蕨・百合根・茸・蘿菔・胡瓜・芋・午房・蕗・粒荏・生糸・真綿・麻糸・煙草など(管轄地誌)。同22年沢内村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253153