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乙部村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。盛岡藩領。宮古通に属す。村高は,慶長16年25石余(田老近世史年譜),「正保郷村帳」44石余(田3石余・畑41石余),「貞享高辻帳」55石余,「邦内郷村志」95石余(うち給地69石余),「天保郷帳」80石余,「安政高辻帳」64石余,「旧高旧領」80石余。「仮名付帳」によれば,枝村に小湊・青ケ滝・大堀内の諸村が見える。慶長16年の家数127(同前)。「邦内郷村志」によれば,家数127,集落別内訳は越田9・青19・松永沼(長根)7・青野滝20・男遊部11・新田2・大堀内5,馬12。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数101,集落別内訳は本村16・青猿19・有家【ありや】5・越田12・清水畑【すずはた】8・松長根6・小湊4・乙部野3・男遊戸8・青ノ滝10・小堀内6・新田1・飛【とぶ】3。弘化3年の家数132,人数は男285・女336の計621人(同前)。大松山千手観音菩薩堂に寛保2年の修造棟札がある。青野滝の加茂神社には,天保4年石造玉垣が寄進された(同前)。寛永18年42町を1里とする三閉伊道法が制定されて長畑塚の峠に一里塚が築かれ,正保3年の絵図にも記されている(同前)。宝永7年の伝馬による駄賃は,摂待村まで(2里22間)74文,田老【たろう】村まで(5町40間)6文。また野田・宮古通の海岸は藩内の製塩業地で,元禄12年の絵図には遠見番所とともに製塩施設が記されている(同前)。寛延元年3月には与板船が遭難し7名が死亡(雑書),寛政2年12月には伝三郎他7名が海難死(化粧坂の舟玉碑),文政7年3月には水主太郎以下13人が海難死(田老近世史年譜)。文政元年には私塾があり,書道・読書・算術が教授され,塾生数は男35・女15の計50人(同前)。天保13年の「御繰合金取立令」により宮古・野田通に1,800両が割当てられ,当村では久之助12両・徳右衛門10両・大助8両・久次郎が6両を拠出。嘉永6年三閉伊一揆に当村から119名が参加し,交渉のため仙台藩に残った代表者の1人に当村出身の六之助がいる(同前)。明治元年松代藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。明治3年熊野神社が村社となる。同7年文政元年に始められた塾が閉鎖され,同9年乙部尋常小学校が開校,同10年の生徒数は男16・女4の計20人(田老明治年表)。同11年の村の幅員は東西約1里24町・南北約1里14町,税地は田3反余・畑85町余・宅地5町余・切替畑98町余・社地3畝余・荒地5町余の計195町余,戸数158・人口840(男424・女416),牛175,馬15,漁船70,物産は牛・馬・鶏・鮭・鯣・鱈・蚫・鰹・赤魚・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・栗子・楢子・布ノ粉・塩・藍・松・杉・麻布・炭,職業別戸数は農業153・工業3・雑業1(管轄地誌)。同12年東閉伊郡に属す。同16年の製塩業者は1・同従事者300,生産高3,629石(県統計書)。同22年田老村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253255