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重茂村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊郡のうち。盛岡藩領。宮古通に属す。村高は,「正保郷村帳」36石余(田8石余・畑28石余),「貞享高辻帳」45石余,「邦内郷村志」138石余(うち給地47石余),「天保郷帳」も138石余,「安政高辻帳」110石余,「旧高旧領」123石余。「仮名付帳」では枝村に川代・石浜・千鶏・姉吉・小角柄・音部・荒巻・鵜磯・閉崎・追切の諸村がある。天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」では,村高123石余のうち蔵入地77石余・御免地高20石余・給地25石。「邦内郷村志」によれば,家数175,集落別内訳は戸之崎6・乙部36・石浜16・川代4,馬45。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数187,集落別内訳は本村52・乙部41・小角柄5・荒巻6・鵜磯1・戸ノ崎18(うち追切3)・姉吉7・千鶏31・石浜17・川代14。なお館には遠見番所がある。「元治御代官所調」では,家数は169,集落別内訳は本村54・荒巻5・鵜磯7・嘉村4・戸ノ崎12・千鶏36・姉吉11・石浜25・川代15,神社は月山権現・宇賀明神・黒崎明神,台場は大浜・水尻・戸ノ崎・長須賀。人家は海辺のみで,断崖の間の僅かな寄州で塩焚をする。正保3年に釜改めが行われている(雑書)。塩焚作業は年間100日位稼動し,1釜1回10~13俵を生産して牛で山越え駄送し,白浜から舟で宮古へと運ぶ。明治元年松代藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同11年の村の幅員は南部は東西約1里31町・南北約2里11町,北部は東西約26町・南北約1里30町,税地は田1町余・畑111町余・宅地6町余・社地1畝余・荒地17町余の計137町余,戸数174・人口948(男449・女499),牛293,馬19,漁船58,私立重茂小学校の生徒数40(男31・女9),職業別戸数は農業170・雑業1,物産は馬・牛・鮑・赤魚・鯣・米・大豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・麻糸・藍(管轄地誌)。同12年東閉伊郡に属す。同14年当村の塩の生産高4,000石(宮古市史)。ちなみに,天保年間の宮古通の年間生産高は4斗俵で2万6,000俵であった。同年イギリス商船ホルワルドホ号の乗員が重茂浜に漂着,沈没船救助に村民が働くが,言葉・習俗の違いから曲解され,国際裁判沙汰になり,のち裁判により真相が解明され事なきを得る(英国商船難破一件報告書)。同16年の塩浜数9か所,釜数13,年間生産高2,780石(県史)。同22年重茂村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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