100辞書・辞典一括検索

JLogos

30

甲子村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属す。古くは釜石郷の中心で(阿曽沼興廃記),慶長16年釜石街道筋(松倉)の町屋敷に検地が行われて39軒が改められ宿駅が置かれ町立てが始まる(野田武義家文書)。この頃はまだ釜石村の中心地で,のち釜石村となる東部海岸地域は甲子浦・平田と称していた(阿曽沼興廃記)。宿駅には検断が置かれた。遠野方面からの穀物,海岸沿いからの海産物などの交易地として栄えた。元和2年釜石村に肝煎が置かれた。徐々に釜石村の中心が浦に移るとともに,元禄年間頃西部の当地が甲子村として釜石村から分村したという。肝煎の始まりは元禄元年という。甲子という村名は,分村の際に当地の者が苦情を申し立て,調停にあたった代官より「元始の村落」の意味をこめて十干十二支の頭字をとって甲子の佳字を用いるように命じられたことによるという(上閉伊郡志)。村高は,「邦内郷村志」「旧高旧領」ともに189石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,「仮名付帳」では浜釜石村(釜石村)の枝村として記されている。元和7年甲子町の町家35軒が焼失。寛永9年曹洞宗釜石山正福寺が開創。慶安元年甲子町の町割が再び行われ,同3年の検地では釜石甲子新屋敷31軒,表7間・裏21間,市日は9日(雑書)。元禄13年に甲子町の町並みが全焼するが,すぐに復興する。同14年大橋の九右衛門,留ケ洞の半四郎は冬期仙人峠の人馬通行に助力するかわりに免地5石余を与えられる。同15年甲子町は1駄(1駄は8斗)につき荷振銭10文をとることを許される。宝永6年の甲子町の市日は3日と9日。享保14年甲子町家41軒が全焼し,市立ては中断する。享保12年公儀薬草御用阿部友之助(下閉伊郡山田町出身)が久子沢より磁鉄鉱を発見。元文元年には小川山のうち犬の頭走りで金鉱が発見される。平田村・甲子村・甲子町と仙台藩領唐丹村との間に,出火・野火などの際の相互協力を約定する。明和9年釜石・甲子の両村から市立て願が出され,安永元年に釜石に市が立つことになったが,釜石村と甲子村との間で争論が起き,同年遠野から釜石・平田村への穀物類,あるいは平田・釜石村から五十集【いさば】等の付出しに関しては,毎月上15日間は甲子町継立,下15日間は釜石・平田村まで引き通すこととなった。ただし,荷振1駄につき荷振銭12文宛と協定された。「邦内郷村志」によれば,家数145,うち村内集落として大橋8・小川32,馬数424,「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数189,集落別内訳は本村110・甲子町39・小川32・大橋8。享和3年3月大松付近など数か所で山火事があった。文化2年釜石浦笹屋忠治,仙人坂(峠)仲仙人まで350間余の樋を設けて人馬用の水を引き通す。同12年の書上では家数156,うち大橋10・似田前4・卯道通【うどがい】5・大松7・小細越3・砂子渡【いさごわたり】3・一ノ渡13・洞泉6・中根4・寺屋敷5・館か森4・久保3・関沢12・大畑14・柏木野4・坪内2・門口1・久保1・野田6・片岸1・上佐田内2・下佐田内9・葛沢3・向佐田内4・礼角地【れいがぐち】3・小川28(野田武義家文書)。同年似田前偽造鋳銭山事件で村民84人が検挙される。文政5年釜石村の佐野与次右衛門が甲子町荷振銭の負担が多いとして,自力で甲子村小川から遠野通佐比内【さひない】村に通ずる小川新道を開削したため,のち甲子町は渡世に差し支えるとして訴訟を起こし,小川口に荷振銭所が設置された。同5年盛岡青物町利兵衛が大橋山鉄鉱の採掘を許可され,旧式溶鉱炉を設置。同8年の牛馬数は,甲子町407・甲子村71。天保2年甲子・栗林・橋野・片岸の各村で,杉苗を遠野在より調えて植える。同15年藩は領内に桑の木の植樹を命じ,当村では洞泉御山100本・一ノ渡御山200本・小川御山150本・甲子町150本の植樹がなされた。嘉永2年下閉伊郡山田町給人湊逸兵衛が,鉄を作るため大橋山磁石岩を砕き取る。同年三河国の高須清兵衛,陸中国の中野大助が合同で出資し,大橋山下に旧式高炉を設置して製鉄を始める。安政3年盛岡藩士大島高任が大橋に洋式高炉を建設,同4年12月1日,日本ではじめて洋式高炉により鉄鉱石を原料として出銑することに成功。この日は「鉄の記念日」とされる。同年から翌5年まで盛岡呉服町平屋大助が大橋鉱山を経営,同6年から御手行(藩直営)となる。万延元年下小川に鍛冶屋が建設される。文久元年高須清次郎が大橋鉄鉱山吹立新規高炉築工御手行名義で取行方を仰せ付けられ,慶応4年まで同山を経営する。文久3年甲子町正福寺から出火,41軒全焼。慶応元年貫洞瀬左衛門・松岡清蔵・平野治右衛門,砂子渡で洋式高炉1座を建設,明治元年まで製鉄を行う。天明元年当村では知行武士の排斥を申し立てた給所反対一揆が起きており,文化13年には宮古・大槌両代官所管内の米専売化,および養蚕の種紙の専売等に反対して数か村で訴訟を起こし,自由化を認めさせた。このほか,三閉伊通では,弘化4年・嘉永6年に藩政改革を要求する百姓一揆が起きている(釜石市誌通史)。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年南閉伊郡に属す。明治2年高須清次郎と盛岡の外川又蔵が大橋鉄鉱山を経営。同3年の村鑑によれば,家数178,馬387・牛59,甲子町では月6度市立てがあり,社7・寺1,鉱山2・銀山1。同5年,それまで甲子町として甲子村と別に把握されることもあった町場を当村の一部として統一した。同年鉱山寮傭鉱山技師長ゴットフレー来村。同7年大橋鉱山官業化(国営)につき経営者に止山が命じられ,翌年止山となる。同年釜石~大橋間鉄道の敷設着工。同8年唄貝小学校,同9年甲子小学校・小川小学校創立。同10年甲子小学校野田分校設置。同12年野田分校は廃され,唄貝・小川両校が甲子小学校の分校となる。明治11年の村の幅員は東西2里28町・南北1里26町,税地は田3町余・畑305町余・宅地12町余・切替畑2町余など計327町余,戸数240・人口1,361(男679・女682),牛32,馬490,職業別戸数は農業210・工業1・雑業22,物産は馬・牛・鹿・猪・鮭・米・大豆・小豆・大麦・小麦など,ほかに鉄鉱山4か所・鉱山出張所1か所(管轄地誌)。同13年大橋郵便取扱所設置。同年釜石~大橋間に鉄道運送開始。同15年鉄道は工業用の余暇に一般旅客貨物輸送開始。同16年官営の釜石鉱山廃業。同年の戸数251・人口1,528。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253353