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黄海村(近代)


 明治22年~昭和30年の東磐井郡の自治体名。大字は編成せず。戸数・人口は,明治22年481・3,352,同34年514・3,688,世帯数・人口は,大正9年567・4,088,昭和10年694・4,195,同25年759・4,891。明治22年昆野道四郎が黄海共同製糸社,同23年岩淵泰助が黄海製糸場(職工95人)を設立したことにより,近代製糸工業の幕あけとなる(県勧業統計書)。同26年官有林払い下げに係わる疑獄事件が発生,同31年にも同様の事件が起こり,村内抗争が激化した。明治29年黄海農会,同31年葉煙草耕作組合,同35年黄海愛国婦人会,同39年黄海青年会が発足。同年県下初の実業補修学校が黄海小学校に併置された。大正4年大正天皇御大典事業として杉植林と里道改修工事を実施。同6年濁酒密造防止のため革正会が組織された。同10年甘藷貯蔵庫を建設。同12年三好監物墳墓の鞘堂が修理された。明治31・39年字七日町に火災が発生したため同41年消防組が作られた。水害は,明治22・30・31・33・43・44年,大正2・9・11年に発生。明治44年の水害後,赤痢・腸チフスが流行,6名が死亡。また連年の水害のため農村経済が疲弊,大正初年から出稼者が増加した。大正8年の物産は,米3,757石・麦4,553石・大豆828石・小豆142石・稗65石・蕎麦100石・馬鈴薯3万6,450貫・桑葉23万715貫・薪1,380貫・木炭1,000貫,丸太および角材7,098石(県町村誌)。同9年の民有地は,田237.6町・畑419町・宅地50.7町・山林2,177.2町・原野7町(県統計年鑑)。農業改良のための施策として,同13年の米・麦の試作地の設置における品種改良,優良種子の無償交付などが積極的に取り上げられた。同15年結成の農家組合は,昭和3年農会の下部組織である農事実行組合となった。同年桑苗生産組合・村道保護組合も発足。米生産力の増強を図る耕地整理事業は,同4年中田・河吉,同8年大橋・八反・川口沖・橋地区で行われた。昭和5年北上大橋架橋が竣工。同8年電話架設工事開始。同年時局匡救事業として字箕ノ輪~字上中山の林道工事,桑園改植整理事業が実施され,同10年凶作救済事業として黄海薄衣線・中山深田和線・深萱線の道路改修工事に着工した。同年の職業別戸数は,農業624・工業10・商業30・交通業6・公務自由業23。同13年字町裏に農村診療所設置,同年産業組合が発足した。同17年には冷害対策事業として綿織線の改修,字脇谷の護岸工事,八反・字鬼田の堤塘工事を実施。同年森林組合発足。この頃当村は,県下有数の甘藷栽培村として注目をあびていた。同18年深萱地区と曲田の佐々木義夫が甘藷栽培により農林大臣から顕功賞をうけた。同22年農業共同組合が発足。農地改革の結果,昭和22年と24年とでは自作は256戸から418戸,自作兼小作は175戸から163戸,小作兼自作は97戸から51戸,小作は92戸から35戸となり,農村の民主化に役立った。昭和22年黄海中学校が開校。同年カスリーン台風,同23年アイオン台風,同25年ジェーン台風の被害をうけた。昭和23年の水害後,水害予防組合がつくられる。同24年黄海公民館が開館。同25年国民健康保険事業を村営化。同26年農業委員会が発足。同28年教育委員会が中心となって生活改善促進運動が始められた。同年国有林の払下げをうけて村の基本財産に編入。同29年二日町に消防会館兼公衆会場を設置。同30年藤沢町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253572