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栗林村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属す。村高は,「邦内郷村志」117石(うち給地5石余),「旧高旧領」122石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,「仮名付帳」では片岸村の枝郷として記されている。慶長19年大土御蔵納米によると,当村内の砂子畑で17駄1升8合を納入(盛岡浜田家文書)。寛永3年曹洞宗普岳山常楽寺を太田に開創,のち元禄4年鵜住居村に移転。寛文3年から元禄4年まで当地で釜石浦支配桐善兵衛が鉄山経営を行う(鉱山秘録)。天和2年の当村内知行高は中市吉右衛門37石余(のち宝暦年間に上知)。元禄4年中市氏が千手観音堂を再興。享保15年栗林村の鍛冶屋達から延鉄21貫目70本が貢納された(釜石市誌)。「邦内郷村志」によれば,家数83(うち村内集落として上栗林村13),馬数197,観音1。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数94,集落別内訳は本村75・上栗林19。天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」によれば,御蔵高112石余・給所高5石余。慶応3年「大槌録」によれば,当村内の知行高は小川縫之助5石余,当村の牛数24・馬数196,鍛冶炭釜2。文化13年に宮古・大槌両代官所官内の米専売化,および養蚕の種紙の専売等に反対して,当村ほか数か村で訴訟を起こし,自由化を認めさせた。このほか,三閉伊通では,弘化4年・嘉永6年に藩政改革を要求する百姓一揆が起きている。なお,嘉永6年の一揆の指導者三浦命助は当村の上栗林の出身であった(釜石市誌6)。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年南閉伊郡に属す。明治10年栗林小学校創立。同11年の村の幅員は東西1里6町・南北30町,税地は田10町余・畑130町余・宅地4町余・切替畑3町余など計150町余,戸数111・人口613(男314・女299),牛19,馬149,神社3,職業別戸数は農業107・雑業1,物産は馬・牛・猪・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・濁酒・蘿菔・麻・薪・炭(管轄地誌)。同22年栗橋村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253623