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気仙郡


鎌倉期,当郡の地頭となったのは葛西氏である。いわゆる五郡二保のうちに入る(吾妻鏡文治5年9月24日条・余目氏旧記など)。五郡二保については磐井郡で詳述。武蔵国の御家人小代八郎行平は,文治5年奥州合戦の戦功によって当郡を給せられたが,あまりの狭小ゆえに辞退したと伝える(肥後国志・地名辞書)。この伝承の根拠については不明。葛西氏による当郡の統治は南北朝期~室町・戦国期にまで至る約400年の間続けられることになった。しかし,鎌倉期においては,旧郡司金氏の一族が根強い土着勢力を保ち続け,地頭葛西氏の配下にあってもその代官などとなり,実質的支配力を失うことがなかったものとみられる。たとえば,気仙郡司金十郎四郎為俊は文治5年藤原泰衡敗北ののち山中に蟄居したが,翌年の大河兼任の乱に際しては鎌倉側に属して功績をあげ,建久3年,郡司の地位を回復し,采邑3,000余町を給せられたと伝える(安倍姓金氏系譜・金野氏系譜など,金氏の系譜については県史2‐68頁)。鎌倉末期の正和4年,本吉郡馬籠(宮城県)城主千葉忠広の次男,次郎大夫広胤は気仙郡に所領を給せられて,矢作村鶴崎城に住居したという。広胤の子孫は広田湾の周辺に広がり,矢作・小友・高田・長部・浜田などの諸家からなる気仙千葉党を構成することとなった(県史2‐211頁)。南北朝初期の延元2年浜田の新介正重は糠部【ぬかのぶ】郡に出陣,南部師行に属して討死を遂げた。正重の先祖,菅原重成は伊勢の祠官,五十鈴大夫菅原清成の三男で,気仙浜田の地に下向ののちは島太夫と称して海運業を営んだ。藤原秀衡の命をうけて平泉の建築用材を海上輸送したこともあるという。浜田村鎮守天照皇太神宮も重成の創建と伝える。気仙舟師の棟梁的地位をうけついだとみられる浜田菅原氏の海上勢力を陸奥国司北畠顕家ら南朝方が重用した可能性は大きい。浜田新介正重の舟師が八戸浦にまで北上したと想定されるゆえんである(県史2‐302頁)。気仙郡の地頭,葛西氏が南朝方に属したことをもあわせ考えれば,この想定はますます確実性を帯びることになろう。このほかにも,気仙高田郷白田住の伊藤長左衛門祐長,気仙郡住の金兵庫助俊清,気仙矢作城主矢作因幡守重胤,気仙西館城主の千葉弾正重隆らも南朝方に属して,北畠・葛西の麾下に入ったと伝える(県史2‐323頁)。室町~戦国期には,広田湾周辺に広がる気仙千葉氏の一党が勢力を拡大し,内部紛争を繰り返しながらも戦闘力を強めて,本吉・東山(東岩井郡)・遠野など近隣の諸家と衝突するに及んだ。なかでも浜田氏の勢力は大きく,主家葛西氏に対しても叛旗を翻すほどになった。戦国期の天正15年春,浜田安房守広綱は本吉氏の領土に侵入した。葛西晴信の仲介によって一度は兵を引き上げたものの,翌春には再び本吉に出兵,葛西晴信の呼び出しにも応ぜず,叛意をあらわにした。葛西領の全域から動員された討伐軍を相手として,約半年間の合戦が繰り広げられたが,結果は浜田氏側の敗北に終わった。「気仙浜田ノ城主浜田安房守,千葉浜田五郎ガ末孫,葛西一家侍,領知一万石,侍大将也,葛西晴信ヘ逆心シ,出仕ナカリシニ依而,晴信直ニ馬ヲ出サレ一戦ス,安房守防戦事不叶シテ,降参ス,依之,宥免シ帰ラル,是ヲ浜田陣ト云」と「奥州葛西記」は述べている。葛西領全域を巻き込んだこの兵乱の痛手は大きく,葛西氏滅亡の誘因となったとされる(県史3‐126頁)。天正18年豊臣秀吉の奥州仕置によって,葛西領は没収され,上方大名木村吉清の領国となった。翌19年いわゆる葛西大崎一揆によって木村氏の統治は破れ,再仕置の結果,葛西領は伊達政宗の掌中に入り,仙台藩領とされることになった。浜田氏の没落も主家葛西氏と同時期であった(浜田氏の系譜については県史3‐175~178頁)。千葉・矢作・高田・熊谷・小友・新沼・金・長部・村上・猪川・田茂山・有住・大和田・伊藤・及川・紺野・松田などの郡内諸家も浜田氏と同様な運命をたどった。盛岡藩あるいは仙台藩に仕えた者,さらには帰農した者など様々な道筋があったが,在地土着勢力の喪失ということに関しては同様の事態であった。戦国期の葛西領に存在したとされる竹駒郡は気仙・本吉・桃生の3郡を合わせ呼んだ俗称。いわゆる葛西十郡のうちに数えられる。「奥州葛西記」「葛西実記」などの諸本に見える。気仙44郷に本吉12郷・桃生24郷を加えて,竹駒郡80郷と称される(県史2‐47・52頁)。この俗称の成立は戦国末期か,あるいはむしろ近世初期かと考えられる。なお,竹駒の地名は気仙郡内の郷名で古来より近世以後に至るまで存続した。気仙郡の物産として古来より名高いものに黄金がある。平重盛が気仙・本吉の両郡を領したとき京進された黄金は1,300両にも及んだという(源平盛衰記)。同時期の平泉藤原氏のもとにも当郡の金が運上されたものとみられる。陸前高田市竹駒町の玉山金山跡の近くには金売り吉次の屋敷跡と伝えられる遺跡も残されている。玉山金山は天平年間,聖武天皇の命令を受けて行基菩薩が発見したと伝える。この地方屈指の金山として近世に至るまで繁栄を維持した。文禄元年気仙郡の金山は豊臣秀吉の直轄地となり,同4年には伊達政宗に与えられることとなった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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