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好地村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。稗貫【ひえぬき】郡のうち。盛岡藩領。寛文7年八幡通に属す。村高は,「正保郷村帳」108石余(田97石余・畑10石余),「貞享高辻帳」127石余,「邦内郷村志」630石余(うち給地77石余),「天保郷帳」612石余,「安政高辻帳」491石余,「旧高旧領」715石余。安政4年の検地では,高は田598石余・畑115石余,反別は田56町1反余・畑19町4反余(稗貫郡打直御検地名寄御帳/石鳥谷町史上)。宝暦初年の「八幡・寺林通御代官所惣高」(花巻市史1)によれば,村高630石余,うち伝馬高538石余・金目高7石余・給人知行77石余(平沢孫六23石余・高橋熊太郎13石余・浦田七左衛門11石余・菊池専太夫11石余・平沢清助7石余・平沢正悦4石余・鴨沢覚兵衛4石余)。「邦内郷村志」では,家数25,ほかに地内に置かれた宿駅である石鳥谷町68,馬数32。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の下,家数100,集落別内訳は元村23・石鳥谷町83。安政4年検地での家数45(石鳥谷町史上)。明暦4年奥州街道の路線変更によって地内に新街道が通るようになり,石鳥谷村にあった石鳥谷宿(国鉄石鳥谷駅背後の台地上の現字上町付近と思われる)が当地内の新街道筋に移転し,延宝6年8月には町割が実施された(雑書)。移転前の旧石鳥屋宿の地は石鳥谷村として残ったという。ただし,石鳥谷村の名は,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には好地村とは別に見えるが,「邦内郷村志」「本枝村付並位付」には見えず,好地内のうちとして石鳥谷町の名が記されている。幕府へは石鳥谷村を独立村として届けていたが,藩内においては宿の移動後に当村の一部としたものと考えられる。地内を南北に直通するようになった奥州街道(現県道中寺林犬淵線)は,村内での長さ21町5間・幅6間,並木敷地2間である。新街道に築かれた一里塚は,町場の南入口付近にあったが,東側の1基は大正9年に,西側の1基は昭和27年に破壊され消滅した(管轄地誌・岩手県石鳥谷町江曽一里塚)。なお西方台地には,旧街道の一里塚が1基残存する。北上川東部との往還に大迫街道があり,奥州街道から分かれて石鳥谷船場を渡り,新堀村・滝田村葛坂(昭和39年大迫【おおはさま】町に編入)を経て,大迫通亀ケ森へ出る道である(大迫町史交通編・管轄地誌)。延宝6年の宿駅設置以後は,10の日の三斎市が立った(石鳥谷町史資料7)。寺院に好地院(現鳥谷寺)があり,元禄8年浄土宗の大泉寺(盛岡)の檀徒の1人が屋敷内に一宇を建て,大泉寺善涯和尚によって開山し,好地院と称したという。明治15年鳥谷寺と改称,山号は梅香山(石鳥谷町史下)。鎮守に熊野神社がある。天正9年紀州熊野神社を字上好地に勧請したものと伝えられ,明治4年字西裏の薬師堂をもって社殿とし,ここに遷座して村社に指定された。既存の薬師神社は好地院境内にあった好地稲荷神社とともに熊野神社に合祀された(同前)。寺子屋教育は,文政年間大森源兵衛が藩命によって自宅を開放し,近隣の子弟に読・書・算・剣道を教えたことに始まるという。大森家の子孫がこれを受けつぎ,教えを受けたもの60名にのぼった。明治初年には大森源太・後藤弥兵衛・大森友八がそれぞれ寺子屋教育にあたった(石鳥谷小学校百年記念誌)。明治元年松代藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同7年民家を借用して好地学校を設立し,教員数1,生徒数は男57・女29(石鳥谷町史下)。同9年の村の幅員は東西約17町・南北約20町,税地は田87町余・畑91町余・宅地16町余・鍬下104町余など計301町余,戸数162・人口789(男394・女395),馬97,好地学校の生徒数62(男52・女10),職業別戸数は農業122・工業13・商業5・雑業20,物産は,馬・鮭・米・大麦・大豆・小豆・蕎麦・粟・稗・清酒,地内に5等郵便局があった(管轄地誌)。明治天皇は同9年東北巡幸の際7月6日に,同14年北海道巡幸の際8月19日に,奥州街道筋の本村石鳥谷駅で休息している。明治9年の休息時には,大森新助が本陣(当時第8大区1番好地扱所)で手打蕎麦を献上,杉宮内少輔は短冊に次の狂歌を書いて大森氏に与え,同家では家宝として珍蔵している。「石鳥谷日本一のそばなればねざめ更科一言もなし」(石鳥谷町史下)。同17年戸長役場が置かれ,管轄村は当村のほか北寺林・大瀬川・富沢・長谷堂・大興寺・松林寺・八幡・中寺林の9か村であった(石鳥谷町史資料7)。同22年好地村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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