滝沢(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ真滝村,昭和23年からは一関市の大字。明治22年の戸数175・人口1,322。滝沢紙の名で近郷に知られる和紙生産は,明治24年まで60戸の製造戸数を数えたが,その後他地方の和紙に押されて製造戸数は減少の一途をたどる。同29年菅原丑太郎・菅原勘之助らが土佐(高知県)の西川亀治を招いて改良半紙の製造を学ぶ。大正3年県の副業指導の一環として,静岡の永松清一郎の講習が開かれ45人が参加。これによって製紙戸数は20余戸に回復し,同4年の生産は1,000貫余・1,500円余となる。昭和13年当時,4・14・24の日に現国鉄大船渡線真滝駅前に紙市がたち,生産者や仲買人が20人ほど集まる。紙の生産は同27年頃まで行われた。同41年真滝児童館設置。同55年一部が,東台となる。同年の世帯数499・人口2,091。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7254108 |





