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田鎖(中世)


 鎌倉期から見える地名。閉伊郡のうち。元亨4年11月23日鎌倉幕府裁許状によれば,「多久佐利」は閉伊左衛門尉光頼が親父光員から譲与された所領の一部(田鎖文書)。光頼の知行は建武政権下においてもそのまま安堵された(盛岡南部文書欠年月日閉伊光頼代子息親光言上状并北畠顕家外題安堵)。田鍍(鎖)城は南北朝期(永和年間)の築城といわれ(古城物語),室町期には閉伊氏一族の本宗,田鎖家の居城となった(それ以前の本宗は中根城に居たという)。室町・戦国期の閉伊一族・家臣は閉伊川を中心とする地域に分散・割拠して,一族的な結合を保ち,田鎖党・田鎖十三家などと称された。しかし,南部氏の圧力が次第に強まり,田鎖党はその傘下に属するに至った。戦国期の天文10年に記された「閉伊郡黒森山権現」(宮古市山口黒森神社)の棟札には,「大檀那南部右馬允源安信」「旦那田鎖伊豆守政光」などの人名が見え,田鎖氏が南部家に服属していた様子が知られる。田鎖城跡は閉伊川の南岸,田鎖山塊の先端にある。主郭・二の郭・副郭・物見櫓・大手口・空濠などが残る。平山城。380m×420m。主郭の標高60m(城郭大系2)。九戸合戦が終った天正20年,田鍍城は南部氏によって破壊されることになった。「諸城破却書上」には「田鍍 山城破 佐々木十郎左衛門持分 唐之供留守兵庫」と記されている。田鎖氏の系図は「参考諸家系図」などによって知られる(県史3‐422・572・629頁)。なお,田鎖は馬産地として京都にまで聞こえた。室町中期,一条兼良の撰と伝える「尺素往来」には,「多久佐里之本牧両三疋候」と,田鎖本牧から京進された駿馬を特記している(群書9)。大永8年の「条々聞書」(大双子伊勢宗五之記)にも,「田鏁」の馬印のことが記されている(同前22)。一条兼良「鴉鷺物語」にも,「のりたる馬は奥のたくさり」とある(寛永古活写本室町時代物語集成2)。永正9年「御随身三上記」にも田鎖「タクサリ」の名が見える(日本馬政史)。室町期,京都方面で田鎖馬が最高の評価を得ていたことが知られる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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