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新堀村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。稗貫郡のうち。盛岡藩領。寛文10年安俵【あひよう】通,享保20年八幡通に属す。村高は,「正保郷村帳」に851石余(田757石余・畑93石余),「貞享高辻帳」1,000石余,「邦内郷村志」2,590石余(うち給地2,182石余),「天保郷帳」2,590石余,「安政高辻帳」2,077石余,「旧高旧領」3,161石余。村高の漸増は新田開発によるもので,花巻市宗青寺所蔵の元和8年10月25日付南部彦九郎宛南部利直領知状に新堀新田として見える(花巻市史2)。宝暦初年の「八幡・寺林通御代官所惣高」(同前1)によれば,村高2,590石余,うち伝馬高350石余・金目高21石余・給所高2,182石余(内堀帯刀1,014石余・石川半十郎178石余・蟇目茂右衛門149石余・波岡惣右衛門133石余・勝木藤蔵100石余・中野三右衛門100石余・岩間将監100石余・その他100石未満7人)。延宝6年奥州街道に石鳥屋駅が開設され,その周辺村々に伝馬高を割り当てられたが,北上川の河東の村では当村のみである。給人の内堀帯刀は,盛岡藩の重臣であり,始祖の伊頭頼式(通称四郎兵衛)はもと加賀藩士であるが,盛岡藩に抱えられ,慶長・元和年間当村に1,000石の知行を持ち,それ以来同家の知行所として幕末に至っている(内堀家系図/参考諸家系図)。「邦内郷村志」では,家数315,馬351。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の上,家数201。天保15年の検地によると,高は田2,858石余・畑303石余,反別は田249町4反余・畑47町7反余,家数253(稗貫郡打直御検地名寄御帳/石鳥谷町史上)。字明戸【あくと】に鎮守の八幡宮があり,平泉藤原氏の滅亡後,胆沢【いさわ】郡佐倉河村の胆沢八幡宮を勧請し,長島八幡宮と称したという(稗貫郡旧記/内史略)。また,東部丘陵地の裾に内堀氏が祭儀を執行した諏訪神社,戸塚森山麓に大石権現がある。寺院に,真宗大谷派大石山長善寺・同宗大石山観音寺・曹洞宗稲荷山新仙寺・同宗稲荷山金剛寺の4寺がある。新仙寺は新堀城の山下にあり,内堀氏代々の大墓碑がある(石鳥谷町史下)。東の山越えをする大迫往還は北上川の渡河点と結びついており,対岸の石鳥谷町に通ずる石鳥谷渡し,八幡村の奥州街道へ出る赤川渡しがあり,これら渡船場から滝田村の葛坂【くざさか】を経て大迫【おおはさま】町へ通じていた(管轄地誌・大迫町史交通編)。また,新堀石鳥谷方面と亀ケ森大迫方面との交通路に水の口【みのくち】を経由して,内御堂三嶽堂にかかり,赤梅山の沢を迂回して亀ケ森の羽黒堂へ出る中世以来の古道があった。この道は亀ケ森村宮沢にも通じていた(大迫町史交通編)。文化12年春,八幡・寺林通の百姓数百人が盛岡に押し寄せた百姓一揆で,役人が廻村をした際,当村肝入の不正が多数摘出された。肝入が凶作と称して減免申請をし,その減免分を着服し,さらに買上米を命じて小前百姓の一揆を誘発するに至った。一揆は肝入方へ押し寄せ返事を要求したが,役人が買上米のうちから当村の出した分を返し,小前百姓の救済に当てることにして納まった(南部藩百姓一揆の研究)。産物として,藁工品の莚が生産され,「諸士知行所出物諸品並境書」に「百姓共,莚織り出し,渡世仕り候」と記録されてある(石鳥谷町史上)。寺子屋教育は江戸末期から明治初年まで寺を中心に行われ,また字明戸・字橋本には手習師匠がおり,自宅において子弟に読み書きを教えた。橋本の筆塚はその屋敷跡である(新堀村郷土教育資料)。明治元年松代藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同8年字椛野【かばの】に長善寺を借用して新堀学校を開設,教員数2,生徒数は男111・女49(石鳥谷町史下)。同9年の村の幅員は東西約1里8町・南北約1里5町,税地は田306町余・畑214町余・宅地49町余など計622町余,戸数316・人口1,778(男932・女846),馬430,新堀学校の生徒数127(すべて男),職業別戸数は農業306,物産は馬・米・大麦・大豆・粟・茄子・蕃椒・胡蘿蔔・灯心草・太布(管轄地誌)。同17年の土地台帳による反別・地価は,田307町7反余・10万8,241円,畑215町2反余・2万1,003円,宅地51町6反余・9,313円余,山林116町3反余・609円余,原野8町1反余・32円余で,計699町1反余・13万9,200円余(石鳥谷町史資料7)。同22年新堀村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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