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西根村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。胆沢郡のうち。仙台藩領。村高は,寛永検地531貫余(田501貫余・畑30貫余),「元禄郷帳」3,710石余,「安永風土記」693貫余(田611貫余・畑81貫余),「天保郷帳」6,951石余,「旧高旧領」7,038石余。村内は森山を境にして,北部は北方,南部は南方と大別され,それぞれに肝入が置かれた。明和9年の家数401(封内風土記)。「安永風土記」によれば,蔵入地330貫余・給地362貫余,人頭453,家数466(うち名子・水呑・借屋など33)・人数2,215(男1,210・女1,005),馬592,舟3(渡舟1・苅子舟2),神社は八幡社・伊勢社・熊野社・諏訪社など23社,寺院は曹洞宗泰養寺・同法雲寺・同妙鏡庵・真言宗長福寺,修験は本山派の良善院・光善院・宝寿院など5か院。諏訪神社は景勝の地にあることから諏訪八景と呼ばれ,多くの歌人が訪れている。また泰養寺は大町氏の菩提寺でもあり,大町氏累代の墓・位牌・過去帳が残されている。地内町裏の金ケ崎城は,慶長7年桑折氏,のちに留守氏が城主となり,寛永21年からは大町氏(3,000石)の支配下に入り,正保元年大町定頼が移ってきた(金ケ崎町史)。この周辺には武家屋敷地として六軒小路・片平小路・達小路・南拾町・表門前小路・諏訪小路・矢来丁の7小路がある。また藩の御蔵場もあり,本穀蔵2・雑穀蔵4が置かれた(安永風土記)。藩境警備の要員として3名が当村に置かれた。地内千貫石には名石があり,藩主伊達綱村が「価千貫にも替え難き珍石なり」と称讃したのが名の起こりという(金ケ崎町史)。千貫石堤は藩営事業として天和2年に着工され,元禄4年に完成したが,難工事のため女性と牛を人柱に立てたと伝えられる。溜高は237貫余で,西根・三ケ尻・相去の3か村と相去村端郷の六原を加えた4か村による入会用水であった。大町氏の郷学「明興館」は文化~文政年間に設立され,講義は月6回で,和算も盛んであり,中西流数学者岩崎清右衛門が元文6年に算額を奉掲した。日本に現存する算額中3番目の古さという(鈴森家の所蔵)。慶応4年5月奥州鎮撫総督九条道孝が盛岡へ向かう途中当村で昼食をとっているが,これに従うものは士1,220・継夫472・馬47であった(桑島家文書)。明治元年沼田藩取締,以後前橋藩取締,胆沢県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。明治6年南方小学校の前身永保小学校が開校,児童数は65(南方小教育百年史)。同7年金ケ崎・南方・北方の各小学校が開校,同10年の生徒数は金ケ崎学校72(男57・女15)・南方学校92(男78・女14)・北方学校男のみ53(岩手近代教育史)。同13年の村の幅員は東西約4里24町・南北約2里16町,税地は田621町余・畑328町余・宅地81町余・荒地42町余の計1,073町余,戸数655・人口3,754(男1,946・女1,808),牛15,馬723,荷船1,車15,小学校の生徒数は南方学校61(男53・女8)・金ケ崎学校76(男62・女14)・北方学校43(男子のみ),物産は米・麦・大豆・芥子・茶・藍・生糸,職業別戸数は農業635・工業3・雑業2。また地内には金ケ崎宿駅があり,本町には5等郵便局・扱所がある(管轄地誌)。同22年金ケ崎村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254510