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新里村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。盛岡藩領。遠野通に属す。寛永4年から遠野南部氏の知行地。村高は,「正保郷村帳」176石余(田110石余・畑66石余),「貞享高辻帳」221石余,「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに625石余,「安政高辻帳」501石余,「旧高旧領」641石余。寛永4年の遠野南部氏の当村における知行高は391石余(県史5)。遠野領の村々は上郷・下郷に二分されたが,当村は下郷代官の行政下におかれ(綾織村郷土誌),村役人として肝煎・老名(長)・馬刺・古人(境拠人)が置かれた(遠野町誌)。税制は原則的には盛岡藩の制度を適用したが(遠野市史),当村には遠野南部氏の直轄領と遠野南部家の陪臣である田中・四戸・和田の3氏の知行地があったため,それぞれ賦課率に差があったという(綾織村郷土誌)。「邦内郷村志」では,家数74,馬181,当村には宮野目のほか7集落が見える。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の中,家数82,集落別内訳は,宮ノ目4・寒風8・上代6・来迎18・中宿19・日影17・西風館5・我丸5。用水堰に角鼻堰がある。当村は猿ケ石川の沖積平野を有するにもかかわらず水利の便が悪く近世初頭まで水田が相対的に少なかった。寛永初年,遠野南部氏に仕えた阿曽沼氏の旧臣である宇夫方清左衛門が下郷代官に任ぜられ,角鼻堰開削を実現したが,同堰は猿ケ石川を地内角鼻で分水したもので,字中宿を中心に千人役(約80ha)の水田開墾の基盤となった。角鼻堰は現在,綾織土地改良区の管理に属し,宮野目・寒風・根岸・中宿・大久保・田中・馬通田【まかいだ】に及ぶ200haの田地の用水をまかなっている(綾織村郷土誌・遠野市史)。街道は地内の寒風・根岸の山ぎわを通る遠野街道(日詰街道・大迫街道)があるが,盛岡方面から当村を経由して遠野城下へ入るためには必ず宮野目で渡船しなければならず,砂子沢道から迂回し,附馬牛【つきもうし】・松崎を経由する街道が多く利用された。寛文6年,かねてから猿ケ石川渡河の不便を除くことを志した下郷代官宇夫方広続(長右衛門)は,急流の影響をうけない無柱の釣橋架設に成功し,これを愛宕橋と称した(遠野古事記・遠野市史・綾織村郷土誌)。これ以後,盛岡・花巻方面からの運輸交通はすべてこの橋が利用され,砂子沢道から迂回した附馬牛・松崎経由の道は衰退していく(遠野市史)。遠野南部氏は,盛岡南部氏の附庸であったが独立の大名同様の直成敗の特権,すなわち司法権を有していたため,刑場を設置した。一揆には,寛政8年の御用金賦課免除等を要求した愁訴のほか,享和3年には下郷村民が年貢減免を訴願し許可された記録がある(南部藩百姓一揆の研究)。また,飢饉における餓死者供養のため自然石に線刻された五百羅漢が字新滝に所在。これは,明和2年大慈寺第19世義山和尚の発願によるものという(遠野市史)。神社は字新滝に愛宕神社があり,祭神は火遇突地命。なお,「遠野物語」64話に火防の神様愛宕神社の話がある。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年西閉伊郡に属す。明治3年の田租減免を要求した遠野通24か村農民騒擾の中心的役割をはたした1村(遠野市史)。明治9年新里小学校開校。同年釜石村を合併。明治11年の村の幅員は東西30町・南北22町,税地は田75町余・畑154町余・宅地10町余・荒地18町余など計259町余,戸数87・人口518(男268・女250),馬199,大部分が農業に従事,物産は馬・鶏・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・梨子・蘿菔・牛房・瓜・胡蘿蔔・茄子・堅瓜・馬鈴薯・切薯・麻糸・麻布・藍・薪・縄(管轄地誌)。明治20年新崎尋常小学校開校。同22年綾織村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254528