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野手崎村(近世)


江戸期~明治8年の村名江刺郡のうち野手崎村宿ともいう北上川支流の広瀬川源流域の山間部に位置する耕地は少なく,しかも高地のため冷害の被害が多い地名の由来は,金成山などの山裾が長く伸びた先端を野出先と称し,のちに野出崎と書くようになったという仙台藩領村高は,寛永検地167貫余(田108貫余・畑59貫余),「元禄郷帳」1,437石余,「安永風土記」199貫余(田117貫余・畑82貫余),「天保郷帳」1,598石余,「旧高旧領」2,095石余天正19年伊達政宗の所領となり,高屋敷館に大立目内匠,古館に中村九平治らの重臣を配し,盛岡藩領和賀郡境の治安警備にあたらせた正保元年小梁川中務宗影(御一家)が代わって封ぜられ,保土山の野手崎館に明治維新まで居住した江刺代官所(岩谷堂宿)に置かれた奥郡奉行の代官のもとで東方大肝入による支配が行われた寛永19年検地の郷村絵図では東西3,940間・南北3,247間「宝暦風土記」の人数1,832「封内風土記」の家数293「安永風土記」によれば,蔵入地60貫余・給地138貫余,人頭323,家数362・人数1,936,馬321,神社は神明社・曽矢森明神・葉山権現社・熊野白山・拾弐らんば・山之神社・天神社・駒宮・愛宕雷神・八幡社・熊野社2,寺院は曹洞宗万年山金性寺,修験は大乗院・多宝院・宝乗院・松本坊・蔵本坊・福泉坊・円覚坊,ほかに観音2・阿弥陀2・不動がある金性寺は戦国期の元亀3年海盤良和尚開基と伝え,黒石正法寺末寺二渡観音は江刺三十三観音霊場第19番札所であるまた角川原観音は同第20番札所であり,境内林は凶作時の救荒植物である柏(水楢)の老樹が多く,柏観音と別称し,御詠歌に「角川原さかえ久しき柏木を」とある中心地は小梁川氏居館のある野手崎宿人首【ひとかべ】館・口内館を結ぶ要路に位置し,岩谷堂宿から盛岡藩領和賀郡土沢宿・閉伊【へい】郡遠野宿などへの道にかかる宿場で,町検断が置かれ,伝馬所があるまた町の中央に御境目番所が設けられている町場は二日町・三日町からなり,小梁川氏家中屋敷32軒が南小路・中小路・大手小路・桜小路・北小路にあり,また足軽の屋敷20軒がある(安永風土記)江刺代官所から約4里にあたる町の北部,土沢宿方面への路傍に明和3年建立の餓死48万人の供養碑がある天保3~8年は大飢饉で,大根・干菜・わらびの根などまで食いつくし,餓死しても葬式さえ出来ず,飢えた人々が路傍に斃れ,軒下に数多く死んだという天保年間に鈴木権右衛門が塾を開き,安政年間には菊池庸孝の樋懸塾,金盛禅随の金性寺塾,修験多宝院の塾などがあり,明治初年に及んだなお,古館には野手崎城・石刎古館・建久館などがある野手崎城はもと及川勘解由(葛西家臣か)の居館と伝える小梁川館とも称する梁川集落西の尾根一帯にあり(比高50m),尾根先端部の郭は高屋敷館とも称された同じく梁川集落の北,愛宕神社の尾根上(比高20m)には石刎古館があり,雑木林の中に大空濠の跡が残る東西100m・南北80m館主は不明東沢目の建久館は蜂ノ森館・撃森館とも称する久田の現在東沢目公民館東の小山である(比高40m)東西80m・南北100m天元元年,榊原行光が居住して建久館と称したあるいはまた,蜂須賀氏が住んだので,蜂ノ森館と称したと伝える向川目の中居館は熊野神社の丘(比高30m)にあり,深い空濠が残る東西200m・南北100m本丸跡は水田となり,周辺には空濠が残る城主は菊池敏勝天正19年桃生深谷にて敏勝が殺された時,小屋敷城修築の中途であったという(仙台領古城館)明治元年松本藩取締,以後江刺県,一関県を経て,同4年水沢県に所属同6年金性寺に野手先学校開校明治維新により旧領境の通行が自由になると,閉伊郡遠野などへの交易が盛んとなり,交通の要衝となった同8年梁川村の一部となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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