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日詰新田(近世)


 江戸期~明治22年の村名。紫波【しわ】郡のうち。盛岡藩領。日詰通に属す。村高は,「邦内郷村志」453石余,天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」も453石余,「旧高旧領」499石余。もとは高水寺村と一村で,貞享年間以後分村したといわれるが(管轄地誌),「仮名付帳」では郡山村に見える郡山三町のうち日詰町に付属する新田で(紫波町史1),「本枝村付並位付」には日詰町が当村のうちとして記される。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名は見えない。「邦内郷村志」では,二日町新田・郡山三町を合わせ,家数395,馬200。「本枝村付並位付」によれば,位付は中の中,家数252,集落別内訳は日詰町232・日詰新田20。弘化年間頃の日詰新田のみの居住者は14軒(同前)。幕末期の給人とその高は,野村兵八1石余・内城直広7斗余・大槻茂8斗余・神進陸7石余(同前)。郡山三町は,慶長年間に奥州街道に宿駅が開設されるようになると,定期市中心の商業から店舗商業の成立条件が次第に成熟し,街道筋に商店街が形成され,地元商人の商業活動が促進されていった。しかし田舎の小都市には購買力の限界があり,周辺農村の商品需要もまだ停滞していたから,商業を独立の生計とするには不十分であった。そのため郡山三町の町人たちは,町請の新田開発によって耕地を造成し,商業のかたわらに農業を営むという半農半商の形で生計の安定を図っていた。日詰新田というのは,街道筋の市街地周辺の新開田畑をはじめ森林・原野などの付属地全体を指していい,そのほとんどが町人の所有となっていた。弘化3年日詰新田の高497石余の所有者131人のうち117人が町人であった(同前)。したがって藩の土地支配上では,日詰新田は村として取扱われ,肝入・老名・組頭の村方三役も置かれていたが,反面領民支配の上では新田地内の農民も市街地の町人と同じように町検断の支配下におかれ,村と町の2本立て機構をもっていたのである。元禄年間日詰町に外来の井筒屋・美濃屋(のち幾久屋)などの新興商人がやってくると,先進的な技術による酒・味噌・醤油の醸造と販売,独特な商法による呉服・小間物・雑貨・薬などの販売,質屋の営業によって地域の商業活動を促進し,封鎖的な農村も次第に貨幣経済にまきこまれるようになった。これらの外来商人は広く領外市場とも取引し,農村の経済的な転換に乗じて急速に財を築いていった。その一端を土地と家屋の集積状況でみると,井筒屋では弘化3年225石余・嘉永5年67石余・安政2年101石余の計394石余(約40町歩),家屋は嘉永6年の日詰町絵図面に表口40間・奥行60間の本拠と40軒の家屋敷を所有していた。土地は有利な条件で転売され,しかも藩への寸志金献納によってそれらは御免地(免租地)となっていた。一方の美濃屋は,日詰新田ほか30か村に総計784石余(約78町歩)の田畑と,数百町歩の植林地を持ち,同家所有の家屋は,日詰町とその周辺に72軒を数えた。特に同家4代の金子七郎兵衛保憲は,38世南部利済の代に300石取の勘定奉行として藩財政の枢機に参画し,また自ら1万両を献じて城山東側の北上川に承慶橋を架設するほどであった(同前)。明治元年松代藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。明治初年郡山三町のうち日詰町を当村に編入したともいう(紫波町史2)。同10年の村の幅員は東西約22町・南北約10町,税地は田67町余・畑67町余・宅地11町余・荒地1町余・鍬下4町余の計152町余,戸数360・人口1,757(男870・女887),馬65,川漁船1,日詰学校の生徒数110(男78・女32),職業別戸数は農業126・工業150・商業66・雑業14,物産は鶏・米・大豆・大麦・蕎麦・藺席・蘿菔・鎌・馬皮(管轄地誌)。同12年地内に紫波郡役所が設置されたが,同13年には閉鎖された(紫波町史2)。寺社は江戸初期の宿駅開設に伴って,慶長年間に花巻の雄山寺末として庵室開基の曹洞宗長広山勝源院(字朝日田)が創立され,寛永12年善廓開基浄土宗光明山来迎寺(字石田)が桜町から現在地に移転している。字下野沢に大己貴命・少彦名命を祀る薬師神社がある。同22年日詰町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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