岩ケ崎村(近世)

江戸期~明治22年の村名。栗原郡三迫のうち。元和年間藩主政宗の五男宗綱が鶴丸城に入る。以後の領主は,寛永頃六男宗信,その後,石母田大膳・田村宗良・古内主膳・茂庭大蔵と続き,元禄7年中村日向が3,000石を給され領主となり明治に至る(伊達世臣家譜)。安永元年の戸口158(封内風土記)。安永年間の村高120貫余・人頭174・人口1,707。宿駅で岩ケ崎町と称し六日町・八日町・二日町・四日町・五日町(以上中村日向拝領町),ほかに末町・茂庭町・長町(以上御家中町)がある(御分領中風土記/栗駒町飯田次雄氏蔵)。また栗駒山麓の当地方は古くより馬産地として栄え,栗駒山の駒形の残雪は神馬のこもる所と信じられ駒形根神社がまつられた。「此駅封内の駿馬をひさぐの地なり」(奥羽観蹟聞老志)とあり,例年7月朔日より8月20日まで50日間馬市が盛大に開かれた(封内風土記)。天正19年藩直営となり桜馬場(現在通称馬場通)に上・下馬場が設けられ藩主の御用馬などもここで競売された。桜馬場は東西300間・南北17間の広場で両側の土手に桜が植えられていたと伝える。「天保郷帳」の村高1,204石余。鎮守は熊野神社,寺は坂上田村麻呂勧請寛永2年藩祖政宗の参詣があったと伝える真言宗智山派音羽山延通院清水寺,伊達宗綱城主のとき政宗中興開山といわれ桃山式建築の山門を持つ浄土宗名越派摂取山円鏡寺,城主中村家の菩提寺曹洞宗明峰派旗本山館山寺,伊達宗信・石母田大膳・古内主膳・茂庭大蔵の墓のある曹洞宗太源派熊野山黄金寺,そして天保飢饉の供養碑のある曹洞宗太源派月峰山洞松院など。明治6年岩ケ崎小学校が開校。同校は同17年岩ケ崎・駒崎・鳥谷の3か村組合高等小学校となり,同19年組合を解き,岩ケ崎尋常小学校となる。明治元年宇都宮藩取締地,以後,栗原県・胆沢【いさわ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県を経て,同9年宮城県に所属。同22年町村制施行に際し,単独で町制施行,栗原郡岩ケ崎町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7255459 |