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菅生村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。柴田郡三十五邑の1つ(封内風土記)。柴田郡北方大肝煎の所管。仙台藩成立後の所領関係は明らかでない。元禄15年伊達村興が前川村川崎の邑主になってから享保7年まで当村で91貫余を領し,宮床【みやとこ】へ移ったあとも45貫文余の知行地を有した。伊達村詮【むらあき】が享保8年,川崎邑主になってから当村で46貫余を知行し,以後幕末まで続いた。このほかの知行関係は明らかでない。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに978石余。「安永風土記」には村高117貫余(田代91貫余・畑代25貫余),このうち111貫余が給人領で,残りは蔵入地。百姓人頭167人・家数171軒(うち水呑2)・百姓人口822・馬数148と記されている。寛永惣検地の際には町方18人・村方85人が竿受人となったという(村田町史)。村鎮守は宮脇屋敷の六社権現社(現在の菅生神社)で,坂上田村麻呂の勧請と伝える。寺に泉崎【いずみざき】の浄土真宗妙頓寺・曹洞宗竜雲寺の2か寺があった。肝煎は佐藤掃部【かもん】家と寛保以後平【ひら】屋敷の高橋丹右衛門家が代々つとめた。当村の町場は宿場で,名取郡高館【たかだて】や支倉【はせくら】村碁石,村田町へ出る要衝であった。町屋敷は22軒で検断は八巻助五郎家が代々勤めた。明治元年新南部氏領以後,白石【しろいし】県・角田【かくだ】県を経て,同9年宮城県に所属。同18年の戸数113・人口872(柴田郡地誌)。同22年柴田郡富岡村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7256656