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支倉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。柴田郡三十五邑の1つ(封内風土記)。慶長5年仙台藩領確定以後,支倉氏が主たる知行主であった。有名な支倉六右衛門常長は元和8年7月死亡し,その墓と伝えるものが円福寺にあるが,これは養父の紀伊時正(常正の子)のものという(川崎町史)。この後,知行主は準一家福原資保で,正保2年知行地と支倉館を賜っている(中期以後は高城村へ移住)。元禄年間は武藤覚太夫・沢口覚左衛門・村上運五郎・松崎十太郎らが知行地を有していた(除屋敷控帳/川崎町史)。村高は「元禄郷帳」1,504石余,「天保郷帳」1,784石余。「安永風土記」には村高118貫余(田代88貫余・畑代29貫余),このうち110貫余が給人領で,残りが蔵入地であった。ただし,この中には端郷の碁石の10貫余は含まれていない。寛永19年惣検地の時の百姓人頭は78人であったが安永年間には129人に増し,家数132(うち名子3)・百姓人口689・馬数101。肝煎は本郷屋敷の伊右衛門の家が代々勤めた。当村は大村のため肝煎がもう1人いたが,記録上明らかでない。村鎮守は字宮ノ脇上の熊野社で,源義経の勧請と伝えている。寺は字宿【しゆく】にある支倉氏の菩提寺真言宗円福寺,字音無【おとなし】の浄土真宗閣岸寺・真言宗泉蔵寺。このうち泉蔵寺は廃絶した。村の北部に位置する碁石は碁石川に臨む宿駅である。明治元年新南部氏領,以後,白石【しろいし】県・角田【かくだ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同18年の戸数113・人口872(柴田郡地誌)。同22年柴田郡富岡村の大字となる。同18年の戸数113・人口872人(柴田郡地誌)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7257243