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古川(中世)


 戦国期から見える地名。志田郡のうち。「伊達正統世次考」が明応8年と推定している「薄衣状」なる戦国史料は,葛西氏の一族,磐井【いわい】郡東山の薄衣美濃入道経蓮が援兵を求めて伊達氏に送った書状であるが,この中で,一迫【いちはさま】の上形【うわがた】,三迫【さんのはさま】の富沢が私戦で二迫彦二郎を切復せしめたのに,「古川殿御計略を以て,富沢河内守計【ばかり】御赦免を蒙り候上は,一事に公方を守り申され候処,此の気色を妬まれ候や」柏山・金成・黒沢みな野心をさしはさむに至ったとしている。古川殿は,大崎一門で,古川の初見である。「伊達正統世次考」天文5年2月条には,大崎主家にそむいた新田頼遠を,大崎義直が攻めたとき「氏家・古川・高泉・一迫相ともに反して頼遠を助」けたとある。この時,古川宿老米谷兵部煕正【ひろまさ】がその主刑部少輔持煕【もちひろ】をいさめて,大崎宗家に帰すべきことを説いたら,持煕は逆に煕正を攻め,古川は大混乱に陥ったという。伊達稙宗は大崎の要請により出兵,古川城を攻めるが,古川城は以下のような城だった。「東北は卑湿にして沼を成し,人馬通り難し。西南は重湟を深くして,玉造川の水を注入す。石壁高く構え,前栽・後園・樹林・竹叢を成し,其の内を窺い難し」。ここに2,500余の兵がこもったが,2,000余が伊達方に内応し,城は陥る。稙宗はここに秋まで滞在,7月13日,古川を発し,岩手沢を攻め,大崎攻めを終えている。この後,天正14年,大崎義隆の臣新井田刑部が反したときも,古川城主古川弾正はその一味であった。また天正16年2月29日,大崎働き(軍事行動)に失敗し新沼に籠城している伊達勢に,「百々【どうどう】(遠田郡)の鈴木伊賀,古川(志田郡)の北郷左馬允」が人質と交換に開城を申し入れたと「伊達治家記録」にある。豊臣秀吉の太閤仕置をこの地方に実施するにあたり,責任者の蒲生氏郷・伊達政宗は,まず大崎の中新田【なかにいだ】城,ついで古川・岩手沢両城を接収している(伊達治家記録,天正18年8月18日)。また葛西・大崎領が木村伊勢守吉清・弥一右衛門尉清久父子に与えられたときは「伊勢守殿は葛西の地,登米【とめ】郡登米城に住せられ,弥一右衛門尉殿は大崎の地,志田郡古川城に住せらる」と「伊達治家記録」天正18年10月28日条にはあり,葛西大崎一揆に際しても,この両城奪還が蜂起の目標になっていた。仙北戦国争乱の眼目をなした要衝の1つといえる。天正19年伊達領となるとともに鈴木和泉重信(元信)知行地。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7257460