船越村(中世)

戦国期から見える村名。出羽国秋田郡のうち。天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に,「もも川村 舟越村」533石余とあるのが初見(秋田家文書)。竜門寺に現存する南北朝期の五輪塔(基礎1・塔身2・笠1)や,地理的条件から開村はかなり古いと考えられる。戦国期を通じ安東氏領。当時古屋敷と呼ぶ96軒からなる集落は松山(現集落の西端部水道付近)にあったといい,湖に遠いため元亀の頃移ったという(絹篩)。古屋敷から青磁皿3枚が出土。文禄3年8月の「秋田実季小鹿島之内知行方帳」では,村高46石6斗余(秋藩家)。これが固有の村高で,「慶長6年秋田家分限帳」でもやはり同高が瀬下久右衛門御代官所支配となっている(秋田家文書)。八郎潟および日本海とも水道によって結ばれるため港の機能を有し,津軽氏がタカを秀吉に献上する際の寄港地になっているほか(津軽一統志),「湊・檜山両家合戦覚書」にも,「舟こし川ヲワタスニ舟一艘ニ大勢トリノツテ水ニヲヽルヽ物モあり」とある(秋田家文書)。他方漁業も行われ,慶長6年瀬下久右衛門が提出した同年分の肴運上算用状に,天王村と合わせ750貫文とある(秋田家文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7260893 |





