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湯俣村(中世)


 戦国期に見える村名。出羽国秋田郡のうち。初見史料は,天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写に,「ゆのまた村・中津嶋村」633石余とある(秋田家文書)。中津嶋村は近世以降の中津又【なかつまた】村とみられ,朱印状写に記載の前後の村々はともに馬場目川流域の五十目郷内に属す。秋田郡の当地方には新城【しんじよう】郷にも湯又(湯里)村があるが,上記の村は内川川流域に存在した村と比定される。「慶長6年秋田家分限帳」では,一関宇右衛門の代官所支配に指定された五十目郷内6か村中に,「湯俣村・観音堂村」250石余と記載。上記の朱印状写は同日付の「秋田郡御蔵入目録写」と合わせて,秋田実季領の全貌を示しているので,内川川流域全体が湯俣村の名称下で把握されていたと見ることができる。近世の湯ノ又・小倉【おぐら】・浅見内【あさみない】の3村域である。慶長8年に3村域分の村高378石余,中津又村が287石余と推定できるので,単純な按分比率によって,天正19年時の湯俣村354石余の数値を得る。したがって慶長6年時の湯俣村は,すでに観音堂村を分出していると見られるように,近世初期の湯又村が実体となっているといえる。なお行基ゆかりの地蔵仏を本尊とする曹洞宗大休院や八幡神社は中世にはすでに存在していたという。昭和48年に付近から大量の渡唐銭が出土。当時,秋田郡から阿仁【あに】・比内【ひない】地方に通ずる道は,現在の国道285号ではなく,内川川沿いに北上し,郡境の高杉峰の尾根越えを通る道であった(正保国絵図など)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7261412