天童藩(近世)

江戸期の藩名天保元年までは高畠藩と称した外様・小藩藩庁・居城は,はじめ置賜【おきたま】郡高畠,天保元年からは村山郡天童藩主織田氏は,織田信長の次男信雄の子孫信雄の次男信良は父の所領のうち上野国(現群馬県)の2万石を領し,甘楽【かんら】郡小幡(現群馬県甘楽郡甘楽町)に住し,小幡藩をたてたが,明和4年8月山県大弐らの明和事件に関連して処置の不当をとがめられ,藩主信邦は蟄居を命じられた養子信浮【のぶちか】(織田信栄の五男)は2万石の相続を許され高畠へ転封された所領は陸奥国(現福島県)信夫郡・出羽国置賜郡・村山郡に三分された置賜郡には高畠以下6か村4,646石余で,村山郡には天童以下3か村5,747石余で,ほかは信夫郡に与えられた織田家に従来許されていた国持城主格やあじろの輿などの特権はこのときから廃止され,諸大夫の家格となった寛政12年12月信夫郡の所領は収公され,村山郡に17か村9,920石余が替え地され,1万5,000石余が天童を中心とする村山郡に集められた天童に代官役所を設けて郷村支配に当たったが,文政11年5月藩主信美は天童に居館を移すことにした居館・家中屋敷を造営して,藩庁ならびに家臣たちが天童に移ったのは天保元年からであり,ここに天童藩が成立した羽州街道の一宿駅であった天童は,織田氏の城下町となり,村山郡中部の中心的在町として栄えるに至った寺津を外港として最上川舟運の便もよく,近江日野(現滋賀県日野町付近)の豪商中井家も支店日野屋を経営した藩主信学のとき嘉永元年10月置賜郡の所領4,640石余は村山郡に替え地となり,所領は村山郡内に集められたが,村付は山形藩領・蝦夷地松前藩領・幕府領などが入り交って分散状態であった2万石の小藩のため藩財政は早くから苦しく,財政策として江戸留守居役の吉田専左衛門の斡旋で安藤広重の肉筆画を領内の献金者に与えたり,紅花専売を企画したりするほか,幕末から下級家臣の内職として将棋駒作りもはじめられた慶応4年3月信学は致仕して信敏が継ぎ,京都新政府から奥羽鎮撫使の先導役を命ぜられた藩主幼少のため中老吉田大八が先導代理となり,仙台から村山郡に入った副総督沢為量を天童に迎えたそのため庄内藩軍と対峙するに至り,閏4月4日天童は居館はじめ町内が庄内藩軍によって焼き打ちされたその後奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍と抗戦し,庄内藩の追及を受けた吉田大八は自刃して果てた同年9月降伏し,12月の処分で2,000石を削封され,信敏の弟の寿重丸が襲封した明治2年6月版籍を奉還し,寿重丸が天童藩知事に任命されたが,まだ4歳の幼児であったので特命をもって信敏が藩知事となった同4年7月14日廃藩となり,天童藩領は天童県を経て,山形県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7263835 |