延沢村(近世)

江戸期~明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,寛永20年からは幕府領。慶長2年10月吉日の治部少輔旦那注文写(米良文書/熊野那智大社文書3)に「一,出羽国……一,のべさわ 一,こたしま三十三かう」とあり,地内の熊野参詣の旦那職を「五右衛門はは」なる人物が有していたことがわかる。なお慶長6年11月17日円照寺観音堂へ,同7年1月延沢八幡神社へ延沢城主康満が慶長5年の関ケ原の戦の影響を受けた出羽合戦の勝利を感謝して奉納した絵馬がある。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では野辺沢城廻として1,653石余,延宝3年の検地では2,416石余といい,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,591石余,天保13年の村山石高帳でも変わらず。延享2年の村明細帳(県史13)では,村高2,416石余(うち田2,131石余・畑285石余),家数236軒(うち百姓177・水呑54・寺4・社家1),人数1,075(うち男602・女457・出家9・山伏5ほか),馬125,酒屋4軒,村内には溜池1か所(芦沢山)・堰1か所,郷蔵4か所があった。宝暦11年の家数159軒・人数828(うち男478・女350),馬40(尾花沢市史資料5)。尾花沢付村明細帳(県史13)によれば天明8年の家数167軒・人数857(うち男467・女390),馬46,枝郷は新町【あらまち】・古殿【ふるとん】,助郷は尾花沢宿へ出役,年貢米は大石田河岸(現大石田町)から下げ降し,しばしば水損・旱損に襲われたという。明治4年の村明細帳(県史13)では,家数155軒・人数981(うち男515・女466),馬82・牛3,当村は九日町組・三日町組・荒町組・古殿組・本郷分の5組に分かれており,「往来之義ハ,陸前通ニ而諸荷物,武士荷共通行ニ御座候,問屋弐軒」と見え,上15日は三日町組問屋新三郎,下15日は九日町組問屋金蔵が勤めた。242石余の出作高があり,村内には御林12か所(126町歩余),板橋2か所・土橋3か所,大堰2か所があった。諸職人として木挽2・大工5・鍛冶1・桶屋1・糀屋2・荒物商1・菓物商2・酒造1・質屋稼1・紺屋3が記されている。袖原は新田であったが地味が悪く収穫もなく荒地になった。鎮守は八幡大神。ほかに稲荷神社・愛宕神社がある。寺院は,曹洞宗竜護寺・同勧音寺・浄土宗金城寺・浄土真宗善法寺,ほかに修験金則院。明治7年竜護寺内に延沢学校,枝郷古殿の実想院内に古殿学校設立。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別365町9反余,戸数165・人口1,076。明治11年北村山郡に属し,同22年常盤【ときわ】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264348 |





