真室(中世)

戦国期から見える地名。村山郡のうち。天正9年と推定される5月2日付,庭月宛最上義光書状写(楓軒文書纂/県史15上)に「真室へ同心之事如何ニ令存候処」とあるのが初見。また年月日を欠くが同年のものと推定される武藤義氏感状(雞肋編/県史15上)にも「今度まむろ前にて,ひるいなきはたらき,尤其方手たてにて今度七十一各高名,其しゆこ(証拠)相のほせ候」とある。大永年間に秋田仙北の小野寺氏は客将佐々木貞綱を当地に遣わしたという(正源寺開闢縁起)。佐々木氏ははじめ最上川畔の岩花(現戸沢村)に居館を構えたが,永禄6年庄内武藤氏と戦って敗れ,鮭延城(真室城)に移り,鮭延氏と称したという(新庄古老覚書)。天正9年の最上義光の真室城攻撃に際し武藤氏も出兵し最上氏と戦った。元和8年の「板垣河内高名覚書」に「一,庄内最上取合之時まむろの地に籠,新城前に而天正九年七月二十一日之合戦に首壱ツ取申候」とあり,また同年の「金右馬允高名覚書」にも「一,まむろの内きようつかと申所にてくび壱ツ取申候」とある。この戦いで鮭延城は落城し,城主鮭延越前守秀綱(愛綱・典膳ともいう)は最上義光に臣従し,最上氏の宿老となった。これ以後鮭延城は最上氏が庄内・秋田仙北方面へ進出する拠点となった。天正16年と推定される2月16日付の庭月和泉守宛最上義光書状写(楓軒文書纂/県史15上)に「真室之地を根城持詰,庄内仙北之防ヲも致度候間」と見える。なお「奥羽永慶軍記」(集覧8)には「最上与山北於境目合戦事」として「山北(現秋田県仙北郡)ノ領主小野寺孫十郎義道ハ近年最上カ為ニ間室ノ庄数(十)ケ所ヲ奪ハレヌ」とあり,当地をめぐる争奪戦の模様が記されている。中世の真室は鮭延と呼ばれる地域とほぼ同様に考えられ,最上地方,現在の真室川町・金山【かねやま】町・鮭川村および戸沢村の一部を含むあたりに比定される。→鮭延郷

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7264836 |