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本顔好村(近世)


江戸期~明治9年の村名本顔吉村・本好吉村とも書き「もとこうよしむら」とも称した村山地方,月布川中流沿岸に位置する村山郡のうちはじめ最上氏領,元和8年左沢【あてらざわ】藩領,寛永8年幕府領庄内藩預り地,同9年庄内藩領,慶安2年松山藩領(左沢陣屋支配),天明5年幕府領,同8年からは再び松山藩領本郷に属す村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに240石余,村山石高帳では天保13年221石余,ほかに慈恩寺領朱印1石余がある慶長16年2月の衆徒知行帳三口(県史14)に,「かたよし 百仁十苅」「かうよし村 一 壱俵七升」が別当分として見え,また慶安元年8月の最上院御朱印状交付願(同前)には慈恩寺弥勒領高293石余のうちとして「壱石七斗 是ハ左沢ノ内酒井摂津守殿知行所ニ有 好吉村之内」とある枝郷は久保・腰王原(子石王原)慶安2年の左沢山里苅田畠寄帳では,村高220石余(うち田184石余・畑29石余・屋敷5石余),青苧【あおそ】代米2石余,屋敷22軒天明7年の左沢領村々様子大概書下(県史13)によれば,同5年の村高225石余(うち新畑3石余),反別は田8町6反余・畑3町7反余,家数29軒,人数は男69・女68,馬5,用水は沢水を利用し,農間余業に男は薪を取り,女は布を織り,また青苧を作った年貢は金納であった旧山形県を経て明治9年山形県に所属同年新顔好村と合併して顔好村となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7265030